民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「大放言」 その7 百田尚樹

2017年06月22日 00時23分34秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「大放言」 その7 百田尚樹  新潮新書 2015年

 「私は寝てないんだよ」 その3 P-15

 原野商法や先物取引の詐欺事件が起こると、コメンテーターは一斉に詐欺集団を非難するが、「被害者も欲に目がくらむから騙されるんだ」と言う人はいない。朝鮮高校の授業料無償化に対して、「反日教育を行っている学校に日本の税金を使えるわけがない」と言う人もいない。大人顔負けの残虐な殺人事件を起こした少年に対して、「こいつらはケダモノと同じだから死刑にして当然」と言う人もいない。

 すべてのコメントが当たり障りのないもので、事件の被害者も加害者も傷つけないような美しい言葉で飾られる。それはなぜか。言葉尻を捉えられて、攻撃されるのが怖いからだ。もっともテレビ局が視聴者からの批判を恐れて、コメンテーターに自由に語らせないという面もある。番組が問題になればスポンサーから苦情がくるからだ。

 そうした事情は理解しても、私がぞっとするのは、相手が反論できない立場であるとわかると、あるいは(そういう人物を攻撃しても)人権派弁護士や利権集団などからの反撃がないとわかると、テレビ局もコメンテーターたちも一転して言いたい放題になることだ。まさに声をからして非難の言葉を投げつける。それはもうおぞましいばかりである。