「声を届ける」 10人の表現者 梯(かけはし)久美子 著 求龍堂 2013年
「西川 美和さんのこと」
前略
庭に面した静かな和室の真ん中に文机(ふづくえ)を置いて座布団に正座し、
古い着物地をパッチワークした膝掛けをかけて、彼女はノートパソコンに向かっていた。
映画『ディア・ドクター』の登場人物たちを主人公にした短編小説集『きのうの神さま』
(ポプラ社、2009年)の仕上げにかかっていたのだ。
のちに直木賞候補になった作品である。
住まいは東京だが、脚本と小説の執筆は実家でする。
雑音の多い東京では、書くことに集中できないからだ。
広島ではひたすら部屋にこもり、考えることと書くこと以外はなにもしない。
一行一行、苦しみ抜いて書いているという脚本のときは特に、
睡眠以外の時間はずっと机にはりついていられる環境でないと不安だという。
脚本を書き始めるときは、またあの苦労をしないといけないのか、と思うそうだが、
映画を作るための苦労こそが、彼女の優先順位の一番目に位置するものなのだ。
どういう話の流れからだったか、「私、くじって引きたくないんです」と彼女が言ったことがある。
「宝くじにも当たりたくない。そんなところで運を使いたくないですもん。
私にとっては、これはいける、というネタを見つけたときが運の絶頂なんです」
人間、そんなに多くのものを手に入れられるとは思わない。
それならば自分の人生は「一点買い」でいきたい。
そう西川さんが話したとき、なるほどと納得がいった。
礼儀正しくおだやかで、にっこり笑えばかわいらしく、
どんな年代の人からも「感じのいいお嬢さん」と言われるであろう彼女だが、
付き合うほどに、芯のところに何かこつんと硬いものがあることがわかってくる。
それは、優先順位が一番のもの以外を欲しがらない、この潔さから来ているのだろう。
後略
西川 美和 映画監督 1974年 広島生まれ
「西川 美和さんのこと」
前略
庭に面した静かな和室の真ん中に文机(ふづくえ)を置いて座布団に正座し、
古い着物地をパッチワークした膝掛けをかけて、彼女はノートパソコンに向かっていた。
映画『ディア・ドクター』の登場人物たちを主人公にした短編小説集『きのうの神さま』
(ポプラ社、2009年)の仕上げにかかっていたのだ。
のちに直木賞候補になった作品である。
住まいは東京だが、脚本と小説の執筆は実家でする。
雑音の多い東京では、書くことに集中できないからだ。
広島ではひたすら部屋にこもり、考えることと書くこと以外はなにもしない。
一行一行、苦しみ抜いて書いているという脚本のときは特に、
睡眠以外の時間はずっと机にはりついていられる環境でないと不安だという。
脚本を書き始めるときは、またあの苦労をしないといけないのか、と思うそうだが、
映画を作るための苦労こそが、彼女の優先順位の一番目に位置するものなのだ。
どういう話の流れからだったか、「私、くじって引きたくないんです」と彼女が言ったことがある。
「宝くじにも当たりたくない。そんなところで運を使いたくないですもん。
私にとっては、これはいける、というネタを見つけたときが運の絶頂なんです」
人間、そんなに多くのものを手に入れられるとは思わない。
それならば自分の人生は「一点買い」でいきたい。
そう西川さんが話したとき、なるほどと納得がいった。
礼儀正しくおだやかで、にっこり笑えばかわいらしく、
どんな年代の人からも「感じのいいお嬢さん」と言われるであろう彼女だが、
付き合うほどに、芯のところに何かこつんと硬いものがあることがわかってくる。
それは、優先順位が一番のもの以外を欲しがらない、この潔さから来ているのだろう。
後略
西川 美和 映画監督 1974年 広島生まれ
グッとくるものがりました。
文章を書いている時って、とても孤独なんです。
こんなことをしているのは、自分だけかな・・・と思ったりします。
書き上げたときは達成感があるけれど、書いているときは苦痛で苦痛で。。。
苦しみもがくとわかっているのに、
どうしてこんなことをしたいと思う自分がいるのだろう?と・・・
作家さんでもない私が、ちょっとしたものを書くのに苦痛なんて言葉を使うのは、不適切かもしれませんが。
お話を覚えるのも苦痛です。
今は次を覚えようという気力すらわかないのに
語り終わった後、次は○○を語れるようになりたい!と思ったり
自分の言葉で語ったり、言葉を生みだすことは、まるでお産のようです。
二日間ほど、集中するものを原稿でなく洋裁に切り替えたのですが
洋裁も似ており、最初はただの布きれで、作りながら感性のイメージに近づけていくんです。
ミシンも使えますが、なぜか時間のかかる手縫いばかりを選んでしまいます。
途中失敗もしますが、そこから学ぶことも多いです。
なので作れば作るほど上達していくんです。
一つ違うのは、家で楽しむものと、外で人に見てもらうものは違うことでしょうか。
家用ならいくらでも作れるのですが、人に見てもらうようなものとなると、神経を使います・・・
なので、気分転換で作る時は家用がほとんどなんです。
今書いている文章は、外で人に読まれるものなので、とても神経を使います。
ブログも外で人に読まれるものですが、自分の家のような感じなので、多少は気持ちが楽なんです。
けれど、新しい場所で発表をするとなると、とても神経を使います。
もう少し肩の力を抜きたいけれど、真剣な話をできるだけ重々しくないようにスッと心に届くように伝えるにはどうしたらいいだろうかなど、考えてしまいます。
春休みでなければ夜書いて朝寝たりできるのですが
今は息子が家にいるのでそうもいかなくて・・・
集中できる部屋作り、明日の片づけの時に試してみたいです。
部屋が散らかっていると心が乱れるので・・・
この記事はMAYUさんが自分のブログで書くことに苦しんでいるのをみて、
少しは参考になるかなと思ってアップしたものです。
書くことって儀式に近いものがあるんだな、っていう自分への再認識も含めてだけど。
一年間、エッセイの養成講座を受講して気がついたことがあります。
それは読んだ本(活字)の総量というものは書いたものに出てくるんだなっていうこと。
その人の書いたものを読んでいると、その人の読んだ本の量がみえてきます。
それと同じように書いたものにはその人が書いたものの総量が出てくるんじゃないかって。
今、書いているものは未熟(不完全)でも、それは5年後、10年後にいいものを書くための
下準備と思えば、いくらか気が楽になるんじゃないかな。
もちろん、今できることを精一杯やっての上での積み重ねだけれど。
人を感動させる演奏の裏には血の出るような練習がある。
人は曲の美しさに感動すると共に、これだけの演奏ができるまでにどれだけの練習を重ねたんだろう、
その努力の大変さを思っても感動するんじゃないかな。
>それは読んだ本(活字)の総量というものは書いたものに出てくるんだなっていうこと。
>その人の書いたものを読んでいると、その人の読んだ本の量がみえてきます。
> それと同じように書いたものにはその人が書いたものの総量が出てくるんじゃないかって。
これは強く感じます。
実際に書かれていないものも、その人の文章を読めば、あの本は読んでいるなとわかりますし
書くのにどれだけ勉強(研究)されてきたかも想像がつきます。
そうでないと、あんな文章(論文)は書けないと思うので・・・
私がいまスラスラ書いていたら、何十年も書き続けてきた人に失礼ですよね。
書けなくて当然なのかもしれません。おはなしの勉強を始めたばかりの人と同じで
感覚がつかめなかったり・・・けれど現場を経験して感覚をつかんでいきますしね。
フィギュアスケートの浅田真央選手なんかを見ていると
プレッシャーがかかる中で過酷な練習を積んできたのが見えてきます。
あの状況に比べたら、私なんてたいしたことはないのですが
それでも最初の頃は何をするのも大変です・・・
下準備・・・いい響きですね。
子どもの言葉がある日突然たくさん出てきたりするのを見ていると
黙っていた時も、じっと言葉を蓄えていたことが伝わってきます。
恩師がよく「学問に王道なし」とおっしゃっていましたが
まさにそうだなぁと思います。
地味にコツコツが一番大事だと思って今日も書き直そうと思います。
洋裁は締め切りまでは封印します(笑)
プレッシャーがかかる中で過酷な練習を積んできたのが見えてきます。
ほんと、そうですね。
「練習はウソつかない」というわたしの好きな言葉があるけれど、
本番でいかに力を発揮できるかは日頃の練習にかかっている。
そして、それが、これだけ練習したんだからできないわけがないという
「ゆるぎない自信」を生むんでしょうね。
でも、それだけで最高の演技ができるのだろうかという疑問が残る。
それに加えて、「精神面のタフさ」が必要じゃないかと。
勝負の明暗をわけるのは技術ではなく精神的な強さなんじゃないかと。
浅田選手が演技をするのと、わたしたちがお話をするのと
共通点が多いですよね。
お話しは採点競技じゃないから一概には比べられないけれど。
大勢の人の前でなにか(パフォーマンス)をするのは一緒ですね。
そういう時、よく「わたし、あがっちゃって」って言うけど、
プロがあがるってのは聞いたことがないですね。
こんなとこからあがらないためのヒントが見つからないかな。
って、突き放しておいて(笑)
>洋裁は締め切りまでは封印します(笑)
それが気分転換になるのなら封印することはないと思うけど。
それが「逃げ」になってはまずいだろうけど。
自分は精神的なタフさに欠けているなと感じています。
といっても精神的なタフさのない理由は
勉強不足という部分が今は大半なので
まずはもっと練習を積んで場数を踏むことなのですが・・・
もう3年くらい前でしょうか。
私が尊敬しているストーリーテラーの方(先輩)が
乳幼児のおはなし会(絵本がメイン)の時に
悪天候のため参加者が少なかったからか、いつもより動揺していたのを覚えています。
その時に、聞き手の存在の大きさを感じました。
しかし、本当のプロならたとえ参加者が一人でも動揺しなかったのか・・・
先輩はかなりのベテランですが、それでも調子がのらないときがあるようです。
松岡享子さんだったら、参加者が一人でも動揺しなかったのか・・・?
気になるところです。
日本人は親切でやさしい傾向があるので、そこが裏目に出てしまうのでしょうかね。
日本人に合ったメンタル教育みたいなものがあると
だいぶ変わってくるように思いました。
外国のまねをしてもダメで、日本人には日本人に合ったやり方があるのだと思いました。
ちなみに洋裁はやりだすと、徹夜してでも完成させたくなるので
原稿を書き終えたご褒美にとっておこうと思います。
「場数を踏む」ことについていえば、どうしてもふれなきゃいけない。
わたしはソロでギターを弾いていて、
月に一度、オープン・マイクのライブ・ハウスで演奏しています。
(オープン・マイクとは音楽の好きな人が集まる場所で、
出演料を払って演奏することです)
今年の7月で連続出場8年になるんだけど、
最初の頃は指がふるえて思うように演奏できなかったんです。
でも、何度も出ているうちに指がふるえることはなくなりました。
場数を踏むってこういうことなんだと思いましたね。
「練習して、人前で発表する」でワンセット。
これをくり返すのが「場数を踏む」ってことじゃないかな。
ただ発表だけしてもダメ、練習して発表。
発表したときのいろんなことが経験として蓄積されていくってことかな。
でも、場数を踏まなきゃいいパフォーマンスができないかっていうと、
そうでもないと思うんだ。
若い人にはこわいもの知らずの勢いがある。
それは逆に場数を踏むと失っていくものじゃないかな。
いろんな人がいる。
若いときにはじめた人も、年取ってからはじめた人も。
はじめてまもない人も、キャリアの長い人も。
みんなそれぞれにそれぞれの思いをいだいて発表する。
これがいいなんて絶対的なものない。
その時できることを精一杯やればいい。
うまくいかなかったらそれをバネにまたやり直せばいいさ。
>ちなみに洋裁はやりだすと、徹夜してでも完成させたくなるので
凝り性なんですね、それじゃ気分転換にはならないか。
明日から洋裁ができそうです。
akiraさん、ライブハウスで演奏をしているのですか!
でも、言われてみると、イメージがわいてきます。
8年も続いているなんて、とても音楽が好きなのですね。
ストーリーテリングの先輩も、音楽がとても好きな方で(音楽家でもあるらしい)
音楽はおはなしに近いものがある気がしてならないです。
>「練習して、人前で発表する」でワンセット。
>これをくり返すのが「場数を踏む」ってことじゃないかな。
私もそう思います!練習だけしても、発表の場がないと
現場経験として、自分の体の中に沁み込んでいかない気がしまして・・・
私は度胸や勢いだけはあるのですが、中身が伴わないため、
結局行き詰ってしまうことが多いので、最近は勉強を大切にしています。
しかし、勉強をしていると、保守的になっていき
「もっと勉強しないと発表できない」という気持ちが強くなるのも事実です。
何も知らないときの方が、積極的に取り組んでいたので
その頃の勢いも大事にしたいなって思います。
最近は守りに入ってばかりだったので
攻めの姿勢も大事にしたいです。
失敗しないようにではなく、失敗してもいいからやる!
ぐらいの方が、意外とうまくいきそうな気がします。
失敗を恐れると、固くなるので・・・
のびやかさを、大事にしたいです。
共通点は多いと思いますね。
わたしは文学、美術、音楽をバランスよく楽しみたいと思っているんだけど、
文学と音楽はまぁまぁだと思うけど、美術がからっきしダメですね。
宮沢賢治は詩を書き、絵を描き、チェロを弾いた。
メインは文学だと思うけど、絵を描き、チェロを弾いたことが
プラスになっていることは間違いないでしょうね。
>失敗しないようにではなく、失敗してもいいからやる!
ぐらいの方が、意外とうまくいきそうな気がします。
その意気、その意気。
失敗したほうがより多くを学べるのさ。
ちなみに打たれ強い方かな?
打たれ弱い人には逆効果かもしれないから。
わたし、ほめられて伸びる子なんです、ってよく聞くけど、
ほんとにそんな子いるのかなって思う。