民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「芸能入門・考」 小沢 昭一 

2013年05月21日 23時31分51秒 | 大道芸
 「芸能入門・考」  小沢 昭一 土方 鉄 共著   明石書店  1981年

 「ストリップのお姉さんは芸能の原点に立つ」 P-175

 いま残っている大道芸というものは、多くは「保存会」といったもので、観光的なものと結びついて、
商業主義の末端で、太鼓を叩いているようなもんなんですね。
だから、昔のように寒風に吹きさらされて頑張っているという姿は、もう、ほとんどない。
そういう中で、いまでも、何が、一番、芸能の原点、芸能人の故郷の姿をそっくり残しているかなと
思ったら、それはストリップだったわけです。

 だいたい、ぼくらの仕事の一番大元の芸能というものには、どうも三つの要素があるなと思った。
一つは、やらざるを得ない仕事であるということ。
好き好んでやっているわけじゃない。
しかたなしに食うためにやるんだ。
ある場合には、気がついたときには、もうすでにやっていた。
楽屋で生まれて、楽屋で育って、ほかの仕事はとてもやれる状態じゃない。
世の中の仕組みがそうだから、やることができない。
だから、しかたなしにやらざるを得ないということですね。
二つ目は、明らかに世間から白眼視されているということですね。
卑しいと、世間から見られている。
三つ目は、住所不定である。
ねぐらは実はあるんだけれども、ほとんどはそこに帰らずに、旅から旅へ放浪していく。

 この三つの要素が、われわれ芸能者の先輩たちを好むと好まざるとにかかわらず包んでいた条件だった。
いま、それを担っているのは誰か。
それは「保存会」の芸能ではなくて、ストリップのお姉さんたちなんですね。
この人たちは、まさしくお金のためにやる。
別に、みんな淫乱だからやっているわけでもないし、露出狂だからやっているわけではない。
男にだまされたとか、いろいろなことが重なっているが、結局はお金のためにやっている。

 そして、ほかの仕事に就けないいろいろな制約がある。
ストリッパーやっていますといえば、まず、誰もお嫁さんにもらってくれないでしょうしね。
そういう意味では、彼女たちは、まさしく白眼視されて、世の中から突き放されて、毎日を送っている。
そして、あの人たちは、十日ごとに楽屋が変わっていく。
楽屋泊まりです。(中略)
小屋から小屋へと移って、そこに住んでいる。
まさしく彼女たちこそが、ぼくらの先祖の姿と魂を宿しているのではないかなと思って、
ぼくは、次第に、お姉さんたちに接近していったわけですね。

「芸能の底流」 土方 鉄

2013年05月19日 00時15分21秒 | 大道芸
「芸能入門・考」芸に生きる  小沢昭一・土方鉄  明石書店  1981年

 第二章 芸能の底流   土方 鉄

 その1---夢で見てさえよいとや申す

 「途中、ところどころの村の入口に立札があった。
---物乞ひ旅芸人村に入るべからず。」

 川端康成の「伊豆の踊り子」の一節である。
年譜によると、川端は1918(大正7)年、二十歳のおりに、
「秋、初めて伊豆に旅し、旅芸人と道づれになる。これをもとに後年「伊豆の踊り子」を書く。」とある。

 「大正」年間、伊豆では、「物乞ひ芸人村に入るべからず」という立札が、
村の入口に立ててあったというのは、小説の世界のことだけでなく、事実とみてまちがいなかろう。
 これはただ、伊豆地方の特別な例だろうか。
旅芸人に対する待遇が、伊豆半島だけきびしかったとは考えられない。
これは全国的なものであったろうことが推測される。

 中略

 旅芸人---つまり放浪芸や、大道芸を演じる者は、非常に軽蔑されてきた。
「伊豆の踊り子」でも、つぎのようなところがある。
「あんな者、どこで泊まるやら分かるものでございますか・・・・・(略)」
茶屋の婆さんが、主人公の問いにこう答えている。
旅芸人は「あんな者」と軽蔑的によばれていたわけだ。

 主人公もまた、こういう。
「好奇心もなく、軽蔑も含まない、彼らが旅芸人という種類の人間であることをわすれてしまったやうな、私の尋常な好意・・・・・(略)」と。
 主人公が、好奇心や軽蔑を否定しながら、
なおも「旅芸人という種類の人間であることを忘れ」なければ、「尋常な好意」が示せないというところに、
作者の意図とは別に旅芸人の位置というものが、あざやかに浮かびあがっているといえよう。

「芸能入門・考」 はじめに 土方 鉄

2013年05月17日 00時25分25秒 | 大道芸
 「芸能入門・考」芸に生きる  小沢昭一・土方鉄  明石書店  1981年

 「はじめに」 土方 鉄

 前略

 たとえば、落語は江戸庶民の、笑いとかなしみを伝える、古典的話芸である。
ところが、いまのブラウン管にうつしだされる落語家たちは、いわばタレントであって、
芸人ではないように思える。
修行をつんできた本芸ではなく、司会や、ドタバタ劇を演じたり、へたな歌をうたったりしている。
それでいて、人気絶頂などと、うかれているのだから、救われようがない。・・・と思えるのだ。

 中略

 よくいわれるように、テレビの普及は、大道芸や、放浪芸の人びとや、旅まわり一座などを、
事実上放逐してしまった。
これら、民衆に生き身の芸をみせていた人びとが、姿を消すようになったのは、
時代の移り変わりとはいえ、残念のきわみである。

 私は最近、インドへいってきたが、そこで素朴な大道芸をみるチャンスにであった。
猿まわし、熊つかい、コブラつかい、太鼓たたき、街頭奇術、軽わざなどである。
 私は、それらをみて、生きた人間の演じる生活のための芸の、必死のおもいに、心がゆれ動いた。
私は、彼らが、インドにおける被差別カーストの人びとであることを知っていたから、
その思いはよけいに強かったのかもしれない。

 芸能の最初の姿は、こうした姿であった。
そして、それはインドに限らず、わが国においても同様であった。
しかも、テレビが出現するまでは、そうした大道芸、放浪芸は、たやすくみられたものであった。

 さらには、民衆がうたう民謡や、民衆がたのしむ踊りなどの、生活と労働にむすびついた芸能が、
大きな裾野をつくっていたのである。
その裾野がひろいほど、専門芸人の芸もまた、その結晶度を高めるという関係にあったと思うのだ。

 今日の、わが国の芸能の貧困は、こうした関係が、失われたことによるといっていいだろう。
そして、失われた原因は、農業労働の機械化の進行と、テレビの出現によることはあきらかである。

「渥美 清」 堀切 直人

2013年05月15日 00時28分16秒 | 大道芸
 「渥美 清」 浅草・話芸・寅さん   堀切 直人(1948年生)著  晶文社 2007年 

 フランス座時代、渥美清は暇があると、外出して、浅草寺境内でテキ屋の啖呵売を眺めていた。
佐山淳の「女は天使である」によると、
「オレも何度かその姿を目にしたが、渥美は腕を組んで斜めからじっくりテキヤを観察し、
口上を楽しむというより、なにかをつかもう、感じようとしているようだった」。 
「浅草のコメディアンは、渥美にかぎらずだれもがテキヤを見、観察していた。
口上、声の調子、客とのかけ合い、客の反応、それらを見て、聞いて、肌で感じて、すべてを吸収する。
芸を見て盗むことができるかどうかが、芸人になれるかどうかの分かれ目なのである」。

 井上ひさしは、当時、渥美清から、テキ屋の啖呵売に関わる、次のような言葉を聞いたと言っている。
「おれたちは役者だよ。台詞を言う人間だよ。言葉だけで、お客さんを引き寄せ、
しまいには財布の紐をほどかせるこの商売は、役者の稽古にはもってこいなんだ」。

 昭和三十二年当時の浅草寺の境内では、平日でも大勢のテキ屋が店を張って、
魅力的な口上を競い合っていた。
佐山淳は前掲書で、その盛況ぶりをこう書いている。
「このころの浅草のテキヤには、学生服に袴姿、
安物のバイオリンをキーキー鳴らしてのんき節を歌っていた石田一松がいた。
学生服を着て詰め将棋の講釈をしている男がいた。
おなじみのガマの油売りは、自分の腕を居合い抜きの刀で切って血をしたたらせて膏薬を塗り、
「ほーれ、これですぐさま血が止まり、傷が跡形もなく消えてしまう。」とやっている」。
「通りかかった客を引きつけ、最後に買わしてしまうテクニックは相当なもので、
何度見ても見飽きない名調子も多かった」。

「話芸の系譜」 関山 和夫

2013年05月13日 00時11分16秒 | 大道芸
 「話芸の系譜」大衆話芸の歴史をさぐる  関山 和夫 著  創元社 1973年

 「話芸とは?話芸と話術の違い」
 
 私がこの本でいう”話芸”とは、節談説教・落語・講談・浪花節のような、
長い歴史と伝統の中でつちかわれ、きたえられ、ねりあげられた”はなし”の芸をさすのである。

 ”話芸”という呼称は、けっして古くからあったものではなく、昭和30年代にぼつぼつ使われはじめ、
昭和40年代に入って普及した、きわめて新しいことばである。
しかし、遠く仏教の伝来の時から様々な形を整えてきた節談説教や、中世末期に端を発し、
近世初頭に原形を整えて今日に及ぶ落語や講釈の伝統的なものを総括して”話芸”と呼ぶのは、
日本話芸の本質を言い得てわかりやすく、私は最適の用語と考えたので、ずっと使用してきたが、
最近は随分使われるようになり、一般用語となっている。

 話芸は、長い歴史の中で幾度も口演されて”芸”としての型を創造した。
従って話術とはおのずから趣を異にする。
いかによくしゃべって話術に巧みでも、それは話芸ではない。
人間の社会生活に密着し、笑わせたり、感動させたりしながら、
しみじみと聴かせる技術を”芸”というのである。
同じ一つの”はなし”をきかせるのにも、様々の演出をこらし、
創意・工夫を加えて何回も何回も演じて”型”をつくるところに話芸の特色があった。