民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「江戸っ子はなぜこんなに遊び上手なのか」 その7

2017年10月22日 00時01分03秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「江戸っ子はなぜこんなに遊び上手なのか」 その7 中江 克己 青春出版社 2016年

 曲独楽の人気芸人 その1

 奥山からは有名人も出たが、その一人が曲独楽の松井源水である。源水は曲独楽をまわしながら、巧みな口上で人気を集め、歯磨き粉を売った。
 源水の先祖は、越中(富山県)の出身で、延宝・天和年間(1673~83)、江戸に出た。当初は「枕返し」の芸を演じていたというが、枕返しとは、木枕をいくつも手の甲にのせ、これを空中に放って返し、さまざまな芸を見せるというものだった。

 その後、曲独楽に転じ、腕を磨いた。亨保11年(1726)、浅草寺を訪れた八代将軍吉宗の子家重が、たまたま源水の曲独楽を見てたいそう喜んだ。これが評判となり、源水は江戸の有名人となった。

 川柳につぎの句がある。

「源水は葉抜き目抜きは芥子之助(けしのすけ)」

 松井源水は歯磨き粉を売っていたが、時折、虫歯の見物人がいたのか、その虫歯を抜いて喜ばれた。曲芸の芥子之助は徳利や鎌を使った妙技を見せ、見物人をはらはらどきどきさせながら喝采を浴びた。見物人の目を奪うので「目抜き」といったのである。

「江戸っ子はなぜこんなに遊び上手なのか」 その6 

2017年10月18日 00時32分54秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「江戸っ子はなぜこんなに遊び上手なのか」 その6 中江 克己 青春出版社 2016年

 「覗きからくり」と「矢場」 その2

 男に人気があったのは矢場(楊弓場)である。料金をとって弓を射させる遊技場だが、浅草奥山のほか、神田明神や芝明神、両国などの盛り場にもあった。
 矢場は普通、間口が1間半(約2.7メートル)か、2間(約3.6メートル)ほどで、入り口の油障子には三重丸の標的が描かれていた。
 客は座敷に座り、細長い台の前で前方、板の間の的を射る。弓は長さ2尺8寸(約85センチ)、矢は9寸(約27センチ)、射手と的との距離は7間半(約13.6メートル)というのが標準とされた。
 料金は嘉永年間(1848~53)ごろ、矢を30筋射て6文(約150円)だから手軽な遊びだった。
 矢場には「矢取り女」といって、客の射た矢を拾ったり、矢が当たったときに「あたりい!」と叫んだりする女性従業員がいた。このような川柳もある。

「矢ぶすまの中へ娘は尻を出し」

 わざと尻をくねらせ、挑発する女もいた。一見、健全な遊び場に見えたが、じつは裏で売春を行っているところもあって、矢取り女は色気で客を誘った。

「江戸っ子はなぜこんなに遊び上手なのか」 その5 

2017年10月16日 00時13分08秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「江戸っ子はなぜこんなに遊び上手なのか」 中江 克己 青春出版社 2016年

 「覗きからくり」と「矢場」 その1

 「覗きからくり」も人気だった。
 これは箱の前方に穴を開け、そこに設けた眼鏡を通して動く絵を覗かせる装置だ。箱のなかに、物語に応じた数枚の絵を入れておく。この絵が順を追って移り変わり、物語が展開する、という仕掛けになっていた。

 「からくり」とはいっても、紐を引いて絵を替える単純なものであった。寛永年間(1624~43)ごろ、長崎に渡来。江戸でも浅草をはじめ、各所に登場した。
 テレビも映画もない時代だから、このような仕掛けの見世物でも受けていたようだ。見世物は4文(約100円)から6文(約150円)と安く、江戸中期には大流行したほどだった。

「江戸っ子はなぜこんなに遊び上手なのか」 その4

2017年10月14日 00時15分47秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「江戸っ子はなぜこんなに遊び上手なのか」 中江 克己 青春出版社 2016年

 笑わせる「豆蔵」とハラハラさせる曲馬 その2

 当初は単純な大道芸だったが、それを複雑にし、演出も工夫して、見世物小屋で演じるようになった。
 そのほか、綾錦、曲独楽、猿楽、物真似など、さまざまな芸が大道芸から出発して、技が磨かれ、見世物小屋の演目となった例が多い。

 軽業は綱渡りや青竹登り、乱杭渡り、篭抜け、人馬(曲馬)、梯子乗り、プランコなど、さまざまな種類があった、いまのサーカスの原型のようなものだった。
 乱杭渡りというのは、長短ふぞろいの乱杭(秩序なく打ち込まれた杭)の上に打ち付けた四角い板を渡っていく。杭は短いもので9尺(約2.7メートル)、長いものは1丈2尺(約3.6メートル)あり、それが10数本、3尺(約90センチ)ほどの間隔を置いて立ててある。広げた傘と扇子を持ち、その杭を身軽に飛び移っていくのだから、客は拍手を惜しまなかった。

 曲馬も人気を呼んだ。馬に立ったままで乗って走らせたり、馬の脇腹にぶらさがったり、飛び降りては飛び乗ったりするなど、馬を自在に操って芸を見せる。

 宝暦年間(1751~63)には、女曲馬が登場し、その意外性が受けて人気を博した。文政3年(1820)5月5日には、奥山に出演中の女曲馬が11代将軍家斉の上覧を得たという。

「江戸っ子はなぜこんなに遊び上手なのか」 その3

2017年10月12日 00時35分03秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「江戸っ子はなぜこんなに遊び上手なのか」 中江 克己 青春出版社 2016年

 笑わせる「豆蔵」とハラハラさせる曲馬 その1

 見世物小屋では軽業や手品、曲独楽、豆蔵、ろくろ首などさまざまな芸が演じられた。「豆蔵」というのは、笊(ざる)や徳利(とっくり)、扇などを使って曲芸や手品を演じ、滑稽な身ぶりや口上、物真似で客を笑わせる。もともと元禄年間(1688~1703)ごろ、豆蔵という大道芸人が手品や曲芸、滑稽なおしゃべりで投げ銭をもらっていた。そこからこのような複合的なお笑い芸を「豆蔵」と呼ぶようになった。

 しかし、これには異説があって、「口まめ」だからこの名がある、ともいわれる。履物と摩擦したり、激しい仕事や運動をすると、手や足に「肉刺(まめ)」ができる。それと同じように、口に肉刺(まめ)ができるほど口上をよくしゃべるから「豆蔵」といわれるようになった、というのだ。つぎのような句もある。

「口に出来る程しゃべるから豆蔵」