民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「江戸っ子はなぜこんなに遊び上手なのか」 その2

2017年10月10日 00時06分16秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「江戸っ子はなぜこんなに遊び上手なのか」 中江 克己 青春出版社 2016年

 はじめに その2

 もう一つ、食の娯楽化という現象が出てきたことも特筆しておく必要がある。たとえば、水茶屋ではただ茶を飲むだけではなく、評判娘(アイドル)を相手にして、という付加価値を求めた。料理茶屋には、珍しい名物料理を求めて押し寄せる。この場合、どんな料理だったかのかなど話題性が重要だった。

 茶屋の茶汲女や物売りの店で働く評判娘は、錦絵に描かれ、現在のアイドルのようにもてはやされたのである。
 また、両国などの盛り場には鮨(すし)、天麩羅(てんぷら)、蕎麦(そば)などの屋台が並び、客を集めていた。食べることに楽しみを見つけたのだ。

 浅草寺境内は信仰の空間だが、一方では盛り場として娯楽の空間をつくり出していた。しかも、近くには芝居小屋が集まって猿若町ができたし、寺の背後には吉原遊郭もある。浅草は、まさに江戸一番のアミューズメントセンターになっていた。

 本書では、江戸の各所にあった盛り場に沿って、江戸っ子がいかに遊び上手であったかを紹介した。その豊かな遊び心は、学んでよいのではないだろうか。

「江戸っ子はなぜこんなに遊び上手なのか」 その1

2017年10月08日 01時00分42秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「江戸っ子はなぜこんなに遊び上手なのか」 中江 克己 青春出版社 2016年

 はじめに その1

 江戸っ子は、遊び上手だった。長屋暮らしで、さほど経済的なゆとりがなくとも、なにかの遊びを楽しみ、明日の活力の糧にした。
 江戸時代は武家中心の身分社会だったが、やがて消費経済が発達するにつれ、町人が経済力を持ち始める。それとともに遊び心が育っていく。遊び心は精神の解放といってよいが、身分の上下や経済力の有無にかかわりなく、知恵を働かせて遊んだ。

 江戸の町には両国、日本橋、浅草などの盛り場ができ、しだいに遊びも多様化した。品川、千住、板橋、内藤新宿などの宿場町も旅籠(はたご)や茶屋、料理茶屋などが整備され、人びとの遊び心に応えて盛り場化していった。

 江戸っ子の遊び心は多方面に向い、広がるばかりだった。こうして江戸の各所に誕生した盛り場は繁盛し、軽業や綱渡り、曲独楽(きょくごま)、手品をはじめ、相撲や芝居、寄席などが人気を集めた。さらには花見や月見、雪見、川遊び(舟遊び)、花火、郭遊びなど、行動の文化の多様化が進んだ。

 それは江戸文化の幅を広げ、江戸っ子の暮らしを豊かなものにした。

学者の妻の心得を書いた手紙 多田富雄

2017年10月04日 00時18分18秒 | 雑学知識
 結婚直前、(多田富雄が)学者の妻の心得を書いた手紙

 研究者の生活は、非常につらい生活です。仕事が詰まったとき、あるいは方角を決定するとき、精神的に短期間精神を集中し、肉体を酷使することがしばしばあります。サラリーマンと違って時間は不規則になり、マイホーム主義という生活は絶対にありません。傷んだ神経をいたわって認めてくれるのは家庭だけです。ですからあなたもそのことは覚悟してくれなくてはなりません。ぼくは年をとって(34歳)結婚することになったので、悲しいことにおままごと的な新婚生活というものは、出来ないでしょう。これからぼくは地位も上がるし、重要な段階に入るでしょう。弟子たちにはいつも控えめにして、やさしくやってください。今まであなたはお母さんに依存したところがありましたが、これからはあなた一人で何事も決定して行ってください。僕はあまり頼り甲斐がありませんので、まずあなた一人でものごとを考え、決定するためにはよほど強い意志と自分の好悪の基準と、しっかりした趣味がなければなりません。

 「春楡の木陰で」 多田富雄 集英社文庫 2014年  「解説」 多田 式江(のりえ)

 多田富雄 1934年生まれ。東京大学名誉教授。免疫学者。95年、国際免疫学会連合会長。抑制T細胞を発見。野口英世記念医学賞等内外多数の賞を受賞。2001年、脳梗塞で倒れ声を失い、右半身付随となるが、リハビリを行いながら著作活動を続ける。能楽にも造詣が深く「望恨歌」など新作能の作者としても知られる。08年第7回小林秀雄賞受賞。10年4月没。

十返舎一九 ―― 自分の死を笑いのタネに その7

2017年10月02日 00時18分06秒 | 健康・老いについて
「江戸の定年後」 ご隠居に学ぶ現代人の知恵 中江 克己 光文社文庫 1999年

 十返舎一九 ―― 自分の死を笑いのタネに その7

 ベストセラー作家なのに貧乏暮し その2

 天保2年のある日、臨終の近いことを悟った一九は、枕元の門人たちに、厳しくいいわたした。
「おれはまもなく死ぬが、死んだら絶対に湯灌などするなよ。着物も着せ替えてくれなくていい。死んだままの格好で棺に入れ、必ず火葬にしてくれ。よいな」
 門人たちは不審に思ったが、師匠が変わったことをいったり、したりするのは、いまにはじまったことではない。だまってうなずくしかなかった。
 やがて8月7日、一九が息を引き取ると、門人たちはいいつけを守って遺体をそのまま棺に入れ、火葬場に運び込み、焼いてもらった。

 ところが、棺に火がまわった途端、
「ど、どーん」
 すさまじい爆発とともに、棺から激しい火柱が吹きあがったのだ。まわりには、門人や友人たちが神妙な顔をして集まっていたが、なにごとが起こったのかと、肝をつぶしてしまった。
 一九は死の直前に、なんと自分の体に花火の管を巻きつけておいたのである。サービス精神の旺盛な一九は、自分の死まで演出して、集まってくる友人や知人たちを笑わせようとしたのだろう。
 そのうえ、つぎのような辞世まで用意していた。

「此世をばどりゃお暇せん香の煙りと共に灰左様なら」

 ひたすら人をおどろかせ、喜ばせようとする一九らしい死だった。