標高330mのモノローグ

富士山の10分の1、東京23区最高峰の10倍の山間に暮らして20年。地域の自然や思いを綴ります。

大河ドラマの井伊直虎ゆかりの地

2017-09-08 19:20:24 | 日記
掛川に忘れたパソコンが宅配便で届きました。早速、井伊直虎ゆかりの地を2日にわたりレポートします。今日は大河ドラマ井伊家に関することです。


ライトアップされた掛川城

直虎と掛川との直接的な関係はなさそう。しかし、井伊直親(なおちか)は掛川城下で当時の掛川城主朝比奈泰朝(やすとも)に殺害された。殺害場所といわれる十九首塚がある。江戸時代には井伊家が掛川藩主となった。これらのエピソードから井伊家にとって掛川はゆかりの地である。

3日の大河ドラマの一部は掛川が舞台だった。今川氏真(うじざね)が逃げ込んだ掛川城に徳川家康が攻め込み、掛川城は徳川氏のものとなった。これによって今川氏は滅亡した。このシーンはあっという間に流れてしまった。しかし、実際は氏真は半年間籠城したという。まあ、ドラマは史実を忠実に描いているわけでないので、一瞬で掛川が終わってしまったのはしかたない。でも、掛川城に、氏真、家康がいたというのはドラマとは別に史実の重さを感じた。


十九首塚の碑


平将門ほか18名の武将の首が埋葬されてると伝わる塚。

さて、井伊直親の殺害場所が十九首といわれているが、もともとこの塚は平将門の首塚伝説の一伝説という。平将門は京の朝廷に反乱し、関東で新政権を打ち立てたが、朝廷軍によって鎮圧された。その首級は京に運ばれ獄門さらされた(939年:古代史最大の内乱)。そして、将門の首塚は東国各地に15カ所ほどあるという。しかし、他の首塚は斬首された胴をもとめて空飛ぶ首が力尽きて落ちたところされているが、掛川の十九首塚だけは違う。敵将の藤原秀郷(ひでさと)が将門と18人の武士の首を手厚く埋葬されたとのこと。


江戸時代、約半世紀にわたり井伊家が掛川城主として勤めた。十九首塚は掛川城にとって裏鬼門に当たる重要な場所だ。つまり現世と死後の世界を分ける境界としての象徴的な場所だ。平将門の首塚伝説と直親殺害の伝承地として祀られるようになったのではないかという。史実ははっきりしないが、ミステリアスな疑問符を投げかけながらひっそりと鎮座しているとのこと。


十九首塚の由来。平将門に関することのみ記載されている。江戸時代の終わりまでは「井伊直親殺害の地と」しての伝承が存在していたが、それ以降は「平将門の首塚」伝承だけが流布していた。ミステリアスな部分だ。そして、大河ドラマによって直親にまつわる伝説が復活したようだ。
コメント
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