日常にバカンスを!

お台場に住むakkiitaner(アッキーターナー)のまったりな日常とぼやきっぷり、っぷり。

子離れのために、思うこと!

2014年09月16日 | 健康 美容 旅行 エンターティメント 語学勉強
はて、このブログは
子育てのあれこれを
そこそこ書き残しておこうかな?
と思って始めたもの。

そして、このブログも
お役め御免!な日も近い。

燃え尽き症候群かい?
て思える今日この頃。

子育ても終焉を迎えつつあるからだ。

一抹の寂しさと
ちょっとした安堵感が
ないまぜになっている。
さて、自分自身の
人生に大きく軌道を戻せる好機到来、
のはず。
なのに、
それを遂行するエネルギーが
湧いてこなくて困っている。

クルリと自分の周りに
弧を描いて取り囲んでいるものが、
子育てから逃れられる解放感ではなく、
子育てという役割の終焉とともに
自分の大切なものが剥げ落ちていく
危機感と虚無感なのである。

参ったな。

故郷で一人暮らしをしている母に
電話でもしてみようか、と
思うのはこんな時だ。

私の子育ての原点はその
「母」だからだ。

まあ、うまくは言えないけど、
母から受けた心の傷、みたいなものが
大きな影となり、
必要以上に娘には
過保護で過干渉な母親だったのでは
ないか?
と、反省もしないではない。

私は母のようにはなりたくなくて、
自立(男に縛られない自由な女)を目ざしたのに、
いざ子供を
もってみると、
母から受けた傷を我が子には
残すまいとするあまり、肩に力が
入りすぎて、
内面では葛藤しつつも、
自立という大目標を投げ捨てて
しまった気がするからだ。

子育てとは、
夫との共同作業であり、
家族とは同じ船の同乗者を
もったことになるので、
効率の良い進み方を目指したら、
夫が働き、私が子育て、
という役割分担が1番円満、
と判断したわけ。
で、つまりは
普通に普通の人がやってること
に帰結した。

ただ、ひとつ、
若いときから余りに、
「アンチ母、アンチ母の生き方!」
を目指していたゆえ、
たどり着いた今の自分を
うまくは受けいられずに
いるようなのだ。
だって、全くもって
自立してないもんな、
特に経済的にさ。

東京で出会った
10才以上年下のママ友を思い出す。
「私なんか、母親の
不倫の現場を目撃したんだけどさ、
母が御免ね、て謝ってきて。
それで、まあ、
終わったよ。
よくあること、母親の不倫なんて」
て言われたことを。

ママ友からあっさりと
そう言われて、
ジェネレーションギャップを
感じるやら、自分の
狭さを恥じ入るやら・・・・!

父以外の男との
母の恋愛など、
私には
軽く流せることではなかったのだ。

が、気づいてしまった。

私は母から、
一言もその件について、
あ・や・まって貰った
ことがないことに。
そのママ友は、
直接謝って貰っているからこそ、
流すことも出来たのだ、と。

1度社会人になってから、
もう時効だと思い、
「学生のときさ、お母さんが
◯◯さんと付き合ってて、
本当に嫌だったんたよね」
と、明るく
言ってみたら、
「あんたは、そんなこと
理解してくれてたと思ってた」
と、逆ぎれされ、
それから丸2日間口を聞いて
もらえなくなる、
ということがあった。

それからというもの
「何で母は私の気持ちを分かってくれようとしないんだろう」と、
諦めにも似た断絶が母との
間に出来てしまった。

その心の闇が、
私をキリスト教へと
向かわせた、とも言えなくはない。
聖書は、他人への
哀れみと許しを常に促して
くるからだ。

聖書を通して、
神以外は、つまり人間は
皆不完全ということを
知ったことは大きな
「癒し」になった。

母もそして、自分こそ、
完全にはなれない罪人なのだから。
許すも許さないも、
同じ不完全な人間だと思えば、
仕方ないか、と思えてきたのだ。


振り返ってみれば、
母のように自分に正直に
子供より恋愛、を
選んだ人生の方が遥かに
ナチュラルで健全だったのでは、と
いう気もしている。

つまり、何を言いたいのかと言うと、
自分に「~なければならない」を課す
生き方は
自分で自分の将来に
ナイフを突き刺すようなものかも、
てこと。

母のようにはなるまい、と
意気込むあまり、
実に無理をし続けてしまい、
その無理を重ねた事が
今の虚無感に繋がっているのに
違いない。

まあ、この虚無感も
自業自得ということになるわけね。

小難しいことはさておき、
それに気づいてしまった以上、
自分に課した母親という名の
重い楔を投げ捨てようと思う。

明日から
無軌道でも自由に生きる、
という開き直りではない。

勿論、今更、
母の不倫をなじる気もさらさらない。

人間皆、不完全で
どうしようもないものなんだもん。

子育ても終焉に向かってる、
今日この頃、
いい「お母さん」なんて、
バカげた足枷は外して、
娘から

「楽しくて元気な
かけがえのないファミリーの1人」

と言われることを目指そう。

これからは、
私の人生を娘の
人生に重ねるのではなく、
距離を持って伴走していけるように、
ひと踏ん張りしていこうと思う。

子育てという荷物を下ろす、
というのではなく、
もともとしょわねばならない
荷などなく、
自分で思い込んでいただけのこと。

幻想に過ぎなかった数々のことを、
今こそ手放そう。

そうしたら
自由で明るい未来が見えてくる、
・・・・気がしている。

うんうん、まあ、
単なるボヤキと言えば、
ボヤキなんだわさ。


子供の数だけ恵みがあるとして、
たった1人しか生めなかったのは、
実に残念だ。

うーん、
次の子は東大にいけたかも。

いやいや、それが
幻想だっちゅう話なんだったぁ。