ならぬ堪忍するのが堪忍
この言葉も道徳経の訳者さんから。
堪忍袋の緒が切れた時点で堪忍ではないっていうことです。
私の祖母は玉尾お婆ちゃん。
諏訪のおふくろ石で名前をみました。
母の話によると、とても苦労人だったようです。母は末っ子で高齢で生まれたため、私の祖母は、明治生まれのお婆ちゃんでした。
今でも、昔ながらの祖母の皺々の手や、刻まれた顔の皺を思いだします。
尾っぽから玉をきちんと数珠繋ぎして、最後に頭まできたら繋げて、玉を集める感じを祖母の名前、玉尾からイメージします。
祖母が入院しているときに、コケコッコ〜と早朝に大声でないたらしいです。鳴きなさいと夢で誰かに言われたらしく、玉尾お婆ちゃん、夢で長尾鶏ならぬ、玉尾鶏だったのかも。。笑🐓
冗談はさておき、🤭
堪忍をひとつしたら、玉を緒に通すイメージを持ちます。
そうして、一個一個、尾っぽから糸に玉を繋げて頭までいったら、結ぶ。
堪忍袋はキュッと縛って溜まったら、ポンポン捨てていく。
そんなイメージで、堪忍、忍々、って腹立てずに生きる。
なかなか難しいですけど、
玉を実は心の袋には貯めているって思うと、やり甲斐ありませんか!?
心も綺麗にしながら、周りを怒りで汚さない。
堪忍袋が爆発したら、折角繋げていた、玉がバラバラ玉砕、1からスタートですからね。
だからこそ
ならぬ堪忍するのが堪忍。
善い言葉だなぁ。
老子様もさることながら、
翻訳した方も尊敬します。
堪忍するような事が起こった時は見えない玉を繋げて貯めていると思おう!