大善人へ身魂磨き

善でありたいと思う。日々精進。感情の渦に呑み込まれそうな時もあるけれど最後には明るく静かな大海原に和合したい。

正しさ

2022-06-27 05:41:00 | ひとりごと

仏教には八正道があり、


正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定


のことのようです。


それでは「正しい」とは何なのか、

正見とは?


正しいってあるともないとも思います。


自分の視点の正しさは

凄い曖昧で、

人が集まれば、仲間との話しでも、

意見の対立は

必ずおこり、


その度に

口を噤む方が

争いがなく

さほど酷いケースでない限り

人に合わせることも私の場合は多い気がします。


その反面、自分の正しさを絶対だと

いう人の多い場所からは

なるだけ離れた方が

楽かなぁと感じることもあり、


そうすると、


実は自分は

ただ我慢しているだけであり、

自分にも正しさは真ん中に

やはりあるんだなぁと感じます。


では、その正しさは本当に正しいのか?

それも分からず

正見とは?と考えてしまいます。


人には自我と真我があり、


自我からでる正しさは曖昧で

簡単に悪にもなり、

時代によりコロコロ変わり

すぐ自分とは違う意見に間違っていると

批判をしたくなるものかもです。


一方、

真我からでる正しさは、

道に沿っているので、

世界共通だし、時代が変わっても、

人が変わっても

変わらないで残る気がします。


その正しさは、そんなに多くないけど、

物凄く大切で大きなもの。


それは、自分「が」際立たないこと。


大きなもの、世界中が求めてやまないもの。

人を愛し育てはぐくむ意識への統合の

ようにも思い、


まるで人を見るように自分を見て、

自分が誰かに腹が立ったり、

嫌だと思った時こそ、


その人の中に自分や、過去の自分を

見て受け入れて、愛を持って接すること

であり、


また、


自分が誰かに腹を立てたり

嫌だと思ったりする


そういう嫌な自分をよく見て、

認めて、許してあげる


その瞬間に、

自我は真我にかわり、

曖昧な正しさは、本当の正しさになり、

正見となるのかもしれないなと

思いました。