大善人へ身魂磨き

善でありたいと思う。日々精進。感情の渦に呑み込まれそうな時もあるけれど最後には明るく静かな大海原に和合したい。

7つ森古墳群と土蜘蛛塚

2022-08-24 05:31:00 | 神仏について
穴森神社を後にして向かったのは、7つ森古墳群です。



妻垣神社を案内して下さった翁さんにも、太古の人々のことを尋ねました。大和朝廷に逆らった元々いた一族の話です。翁さんは安心院縄文会の方で、安心院の歴史にはとても詳しいのです。

土蜘蛛のほか、鼻垂れ族や、耳垂れ族などと呼ばれた一族がいたようです。安心院の昔話にも鼻垂れ族のリーダーの話があります。




安心院には、縄文遺跡が沢山あり、ストーンサークルのような古代祭祀場もありました。縄文時代は争いはなく、寧ろ力を合わせて自然の脅威の中、祈りを中心にして人が生き延びようとした時代だったのかもしれません。

大陸との玄関口の九州には沢山の古墳があります。縄文時代を経て弥生時代、そして古墳時代に。磐井の乱などは、九州と大和の戦いを浮き彫りにしています。



争いの無い長い縄文時代の歴史から、争いが生まれる時代に。それは今も続いています。

九州には、隼人や熊襲という勢力もいたことが神話に記されています。

この地に残る鬼八伝説や、熊野の磨崖仏の99段の石段を作った鬼の話も、差別され奴隷とされた人が酷使された話なのではないかと考えます。




熊野磨崖仏の鬼の階段


もしかしたら、元々その地に居た人が征服者に逆らったが故にそのような蔑称で呼ばれたのかもです。

7つ森古墳群は、その名前の通り7つの古墳がありました。今では彼岸花の名所らしいです。


画像はお借りしました。

彼岸花が咲く地には、無念な思いをした無縁仏がいると思っています。地獄でも目立つように赤く咲く、地獄の釜が開く時期に咲くと聞いたことがあります。

あの世とこの世の行き交いができる時期に咲く花があります。オレンジの花。この花は鬼百合でしょうか。オレンジ色。こちらも、地獄にも咲く花と言われています。お盆の時期に咲きます。
秋に彼岸花、夏に鬼百合の咲く地がここ。





古墳があるということは、征服される前の首長やリーダーが眠る塚だと考えます。






この7つ森古墳の近くに、土蜘蛛塚があるからそこでも手を合わせたいと夫がいうので、調べてその場所にいきました。

携帯ナビには出てきますが、看板も何もないのです。
写真では見え難いですが沢山のトンボが飛んでいます。



ナビで確認しました。この道の向こう。行き止まりだったので、引き返します。



戻って↓この誰も歩いてなさそうな道の先の広場を左に入ったら、



塚のようなところで、ナビが合いました。看板なんかもきっと誰も来なくて埋もれてしまったのかもです。標識も無い。
ただ蜻蛉が何十匹も飛び回ります。



こちらでお線香が消えるまで、お経を唱えてきました。

この土地、この辺りで、ある時人生を変えられた一族がいる。

7つ森古墳に眠るリーダーの元で、争いなく生活をしていた一族かもしれないです。しかし、その後、洞窟で生活することを余儀なくされたり、差別され、蔑称で呼ばれ、忌み嫌われた一族がいたのかもしれません。

大分のこの辺りには抵抗勢力がいたことを遺跡は語ります。

佐伯はサエギル一族がいたことから名前がつけられたとも聞いたことがあります。家族が佐伯にルーツがあるからこそ、この話は他人事には思えないです。

九州王朝があったか無かったかはタイムスリップしなければわかりませんが、『ウガヤフキアエズ王朝実在論』では、景行天皇が竹田まで攻めてきて滅ぼした「土蜘蛛(つちぐも)族」とは、ウガヤ王朝の本体そのものだったとあります。

土蜘蛛塚跡の辺りで駐車するスペースがなくて、たまたま停めたのがこちら。

ねぎの神社の入り口だったようです。
景行天皇「打猿(うちざる)、八田(やた)、國摩侶(くにまろ)」という土蜘蛛を討滅したことを労った(ネギらった)、とかで名前がついたとかなんとかのようでした。

宇佐や、佐伯、竹田、豊後大野、この地の人の温かさに触れて、いろんな歴史の末裔が攻防の末に、今ここに居る、それは、もしかしたら、土蜘蛛や鼻垂れ族などの蔑称で呼ばれた一族が守り住んだ土地だったのかもしれません。

悠久の時は経ているものの、時の概念の放たれた彼方の世界で、
万一無念により心を残す御霊がいるならば、
そういう御霊が昇天しますようにと祈りました。


合掌