マップ上では神座日向神社から近そうだったのですが、参道に行くには大きな天理教敷島大教会の前を廻っていく必要がありました。神社自体は無人で少しひっそりした感じですが、どちらかというと第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮跡伝承地としての方が、一般には有名でしょうか。だから、シキノ宮と呼ばれます。
・二の鳥居。
【崇神天皇 磯城瑞籬宮跡の伝承】
延喜式神名帳の式内社。この地が磯城瑞籬宮跡だとされたのは、1736年の「大和志」に、この神社の西にあると書かれた為ですが、谷川健一編「日本の神々 大和」で、志貴御県坐神社の名前から磯城と称される地名を類推しただけ、という説が大和岩雄氏により紹介されています。
・崇神天皇磯城瑞籬宮趾の石碑。大正14年、奈良教育委員会が建立
【ご祭神】
ご祭神は、「大日本地名辞書・上方」「磯城郡誌」「神道大辞典」では饒速日命とされており、これは「新撰姓氏録」に、大和国神別の志貴連は”饒速日神の孫日子湯支命の後”とあるからです。「先代旧事本記」の天孫本記は、饒速日命七世孫の建新川命またはその兄十千根命の子物部印岐美公を倭志紀県主の祖としています。一方、「日本書紀」は”弟磯城、名は黒連を、磯城県主とす”とあり、「旧事本記」の国造本記にも、”弟磯城を以て志貴県主と為す”と異説もあります。饒速日命と弟磯城にはつながりは有りません。
【記紀の初期天皇妃伝承】
この磯城(師木)県主は、記紀によると、7代までのほとんどの天皇に皇妃を出している事が注目されます。この件に対して、記紀の書かれた天武朝以降に皇室ないし朝廷に接近した氏族を記載しただけであり、史実ではないとの考え方が有ったようです。いわゆる欠史八代説的な考えですね。これに対し大和氏は、6,7第の皇妃として挙がる春日県主や十市県主は天武朝前後に全く登場しなくなるので、それらが記されるのは、磯城県主も含めて古い伝承の裏付けによるもの、と考えられました。
・拝殿。右に磐境・磐座があります
そして、磯城県主らの豪族は、かつては大和朝廷に並ぶ勢力を大和で保っていた小国家の首長達であり、外来の征服王権が土着の娘を皇妃にする形が現れている、と説明しています。しかも皇妃出自の順序は、磯城県主系→物部氏系となっていて、磯城県主がこの地域で最も古い氏族だったと推測されていました。それを服属させて、三輪祭祀権を掌握し、その地に磯城県主を設け、神社を祀って王権化していった歴史意識がこのような系譜にあらわれた、とまとめられていました。
・本殿。千木が倒れてるように見えました
【伝承】
東出雲王国伝承では、”登美氏が三輪祭祀の家であり、磯城県主であった。この家出身の后たちの家系が、磯城王朝となった”と説明しています(「出雲と蘇我王国」)。ポイントは、国譲りさせた"大和王権"の始まりを、出雲伝承は上記初期天皇系譜の後だと主張するのですが、普通認知されてる記紀の話ではその前だとしているから上記の大和氏のまとめ方になって、出雲伝承の説明と異なってくる事でしょう。
大元出版本では、初期3代の皇妃は登美氏の姫だと特に主張していたり、カエシネ王が尾張氏の后を、そしてクニクル王が物部氏の后を迎えたり、オオビビ王が物部氏と協調したとするなど、伝承と記紀はだいたい同じ事を云うのです。ただしクニクル王の兄、大彦の母は物部氏ウツシコメではなく、登美氏のクニアレ姫である等、違う所もあるという話を、十市御県坐神社の記事でも触れました。
【十市県主系図】
先の「日本の神々」の文中に、「和州五郡神社神名帳大略注解」引用の”十市県主系図”が掲載されています。そこでの春日・十市県主の祖、大日諸命はずばり、鴨主命つまり奇日方命の御子であり、登美氏となる建飯勝命(と、磯城王朝タマデミ王の后の淳名底仲姫)の兄弟、つまり分家にあたる人となっています。大元出版本で現れない登美氏の家系が確認できました。
【饒速日命との関係】
饒速日命の後に磯城県主が出るという通説の話は、饒速日命の子孫の勢力に圧迫された事から、そういう言われ方になってしまったのでしょうか。本神社近辺に崇神天皇の磯城瑞籬宮跡が有る、とされるのも同じでしょうか。出雲伝承の中で、この辺りに対する明確な反論は無かったと記憶しています。