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[いばらきじんじゃ・あまのいわとわけじんじゃ ]
川端通に隣接して細長い敷地に鎮座する茨木市の氏神様茨木神社ですが、やはりここでは奥宮で式内社である天石門別神社を主体に取り上げさせて頂きます。当社によると、明治時代の社格制度では、元々政府から茨木神社として郷社に列せられたのに加え、地域の嘆願運動により天石門別神社も郷社に追加され、一境内に郷社二社があったという全国的にも珍しい神社であるとの事です。
細長い境内。東門から車で入ります
【ご祭神とその変遷】
茨木神社のご祭神は、建速素戔嗚尊、誉田別命、天児屋根命の三柱。そして、天石門別神社は天手力男命(配祀神に、天宇受売命、豊国神・東照神)です。これらご祭神がお祀りされてきた経緯を、「式内社調査報告」で生澤英太郎氏が述べられています。
そもそもは、坂上田村麻呂が平安時代始めの大同二(807)年に茨木の里をつくったときに宮元町に鎮座したと社伝に載るようですが、生澤氏は明らかでないとします。一方、現在の当社の見解では、この頃に坂上田村麻呂が和泉・摂津国の各所を巡視していた事実や、都造営事業や東北遠征軍事などで政府方針の転換があったことなどがその背景にあるのではないかと推定されています。
令和の大造替を終えて間もない茨木神社の拝殿
その後時代が下り、1582年の茨木城主中川清秀の禁制には、゛摂州太田郡茨木、天石門別神社゛と見えているのに対し、その後の1593年の棟札には゛摂州太田郡茨木三社相殿゛と変わっているのです。この「三社」とは、春日大明神、牛頭天王、八幡大神宮のことです。生澤氏はこのあたりの変遷について、「摂津名所図会」の文章を引用されます。つまり、産土神や延喜式の神名を喪っていくのは、この地域だけに限らないが、織田信長が邪宗門を招き寄せ、比叡山を焼き討ちにし、大坂本願寺を攻め、高野山までも亡きものにしようとしていた事と関係するとの事です。特にこの地域は織田方の高山右近が在城し、この辺の神社仏閣を破却していました。なので、天照大神、祇園牛頭天王、八幡宮、春日、稲荷、天満宮であれば名神なので災難を免れられると考え、延喜式の遠き神名を隠して名神の神名にして難を逃れた、という事です。
拝殿前の境内社。左から天満宮、主原神社、多賀神社。
【茨木神社本殿の創建】
「茨木神社誌」によると、中川清秀が当社に祈願をして戦功があり、初めは5百石だったのが7万4千石まで石を伸ばしたのを大神の恩頼によるものだとして、毎年献供神楽を奉せられるとともに1580年には神領13石を寄進しました。さらに江戸時代に入り、1622年に本殿を造営して牛頭天王以下三神を奉斎し茨木の氏神とするとともに、石門別神社を地主神として別宮或いは奥宮と称するようになった、という事です。
この時に、現在に至るご祭神の体制となったようで、その前の一時期は、天石門別神社を隠すかのような形で三柱(春日大明神、牛頭天王、八幡大神宮)が祀られたような時期もあったことが見て取れます。
茨木神社の本殿
【「古事記」の天石門別神】
天石門別神社のご祭神が天手力男命となっていますが、「古事記」での天孫降臨の場面では、天石門別神と天手力男命が個別の神として共に瓊瓊杵尊に添えられて降臨したと書かれています。天の石屋戸の場面では天手力男命が活躍する有名な場面がありますが、それに対し天石門別神は天照大御神がこもった石屋戸を神格化した神だと考えられています。
茨木神社の本殿。三間の流造。雨が降ってましたが、銅葺の屋根が奇麗です
「古事記」では別名として櫛石窓の神といい、もう一つの別名を豊石窓神といい、この神は宮廷の御門の神だとも書かれています。生澤氏は、櫛石窓神の表記について、「櫛」は奇、「石」はイハ、つまり堅牢の意味であるが、共に美称であり、「窓」の一字だけがその意味であり、つまりは門神のこととなるようです。
なお、配祇神の天宇受売命は天手力男命とともに天の石屋戸を開けた功績のある神で、天孫降臨にも登場します。
天石門別神社。本殿の奧に鎮座
【天石門別神に関連する神々】
生澤氏は「式内社調査報告」の中で、天石門別神と関係のある神々についての不思議な話をされます。
「大日本史」で、「延喜式」神名帳の天石門別神を祀る神社と、その前後に並ぶ神社が何らか関係する可能性に言及していたそうです。
一つは山城国葛野郡。
- 天津石門別稚比売神社
- 伴氏神社
- 大酒神社
対するのが摂津国嶋下郡
- 新屋坐天照御魂神社三座・・・伴馬立天照神、伴酒着神が合祀(「三代実録」「続日本後紀」に記載)
- 天石戸門別神社(当社)
天石門別神社。後方より
まず、「伴(とも)氏」ですが、「日本古代氏族事典」によれば、これはかつての大豪族大伴氏の後裔で、823年に淳和天皇の諱大伴を避けて改姓したウジナです。伴氏神社はその氏社で、現在の住吉大伴神社がその後身とする説があります。伴氏は平安時代は実務官僚となり、大儀の際の諸門の警衛や久米舞など宮廷儀礼を継承していたようです。
一方、「酒」は辟、避で、松尾大社の記事で記載した、石神、塞(限境の義)の神、道の祖神である事が想起されます。何らかの境を祀る神かと感じられます。生澤氏ははっきりとは述べられていませんが、時代は平安時代ですので、記紀説話を前提とした「天照」と門・境で関係するのでまとめた、という事になるのでしょうか。
天石門別神社を拝所から
さらに生澤氏は、「土佐国風土記」逸文の記事を引き、天石門別神には御子がいたという話もされます。つまり、その地の式内社朝倉神社のご祭神に関して、逸文には゛土佐の郡に朝倉の郷あり。郷の中に社あり。神は天津羽羽の神なり。天石帆別の神、天石門別の神のみ子なり゛とあるのです。「日本の神々 四国」で高木哲夫氏が書かれるには、斉明天皇が海路朝鮮へと出陣する途次、土佐の朝倉山に立ち寄られ、人々が行宮を建ててお迎えしたところ、朝倉山(赤鬼山)の神に無断で伐木したので怒りが天皇にまで及び、天皇はその行宮で崩御されたという、記紀とはほぼ同じ内容(鬼が覗くところも)ながら異なる地域での伝承に関わる神社です(同じような話は伊予にもあるらしい)。ただ、なぜ土佐の地に天石門別の神のみ子がおられたのかは説明がありません。
一列に並ぶ社殿。なかなか豪壮です
【社殿、境内】
天石門別神社の現在の本殿は、昭和49年に竣工した割と新しいもので、古式の銅葺神明造です。入口が正面の真ん中にあるので、大鳥造に近いのでしょうか。この昭和の本殿の前は、春日造の瓦葺でした。旧記によると1684年に再営されたものが昭和の時代まで修理を加えながら続いていました。
茨木神社の社殿は、本殿創建400年の節目を記念した令和の大造営(本殿の修復・屋根葺替、幣殿及び拝殿の造替)を終えたばかりで、特に拝殿は明るい色の白木が若々しく力強さを感じるものでした。
境内は旧くは茨木城の一部で二の丸南にあたります。現在の茨木小学校付近に本丸が有ったそうです。その茨木城の搦手門が移築されて、現在の神社の東門になっています。
茨木城の搦手門だった東門
(参考文献:茨木神社公式HP・境内掲示、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 大和/摂津/四国」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、竹内睦奏「古事記の邪馬台国」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)