[ あぐちじんじゃ ]
古代竹内街道の大阪側の端の近くに鎮座する式内社です(一方、奈良側の端に鎮座するのが長尾神社)。昭和60年頃に社殿が塗り替えられたり境内が整備されたようで、南海本線の堺駅と同じく高野線の堺東駅のほぼ真ん中あたりという街中にありつつ、周囲を木々で囲われて開放感があり整えられた境内が爽やかな印象でした。参拝した日はちょうど七五三の日で着飾った家族ずれが入れ替わり立ち替わり参拝されていて賑わっていました。
東鳥居。見出し写真は堺山之口商店街側の西鳥居と金龍の井
【ご祭神・ご由緒】
ご祭神は、塩土老翁神、素戔嗚神、生國魂神の三柱です。創祇のご由緒は、神功皇后が三韓より帰還されたおり、航海の無事を守護した塩土老翁神を祀ったのが最初と伝えられます。記紀の山幸彦・海幸彦や神武帝東征などで指導者として現れた有難い神で、つまりは住吉三神~表筒之男命・中筒之男命・底筒之男命~を一柱に体現した神とされています。「日本の神々 和泉」で林利喜雄氏は、堺は茅渟海(大阪湾)の港として発展して、そういう土地柄にふさわしい潮流の霊性神だと書かれています。
拝殿
平安時代後期の天永四(1113)年頃にはこのあたりの開口村の家並みも広まって、原村の素戔嗚神、木戸村の生国魂神を合祀(現在は相殿に祀られる)してからは、開口三村大明神と呼ばれ、信仰が広がりました。しかし、信仰の中心は塩土老翁神であり、境内に東側には、この神が腰かけたと伝わる影向石(ようごういし)が、現在も祀られています。
「延喜式」神名帳には、和泉国大鳥郡二十四座の小社として載ります。
拝殿とその奧の本殿の屋根が見えます
【住吉大社との関係】
塩土老翁神が住吉三神と同一神とされることから、住吉大社とは深いつながりを持っており、古くから当社が住吉の奥の院或いは外宮と呼ばれていたほどでした。また、朝廷によって住吉大社と共に、二十年ごとの式年遷宮の造営も行われいたようです。それ以外にも、古来6月晦日には、住吉大社の神輿が堺の浜に出御し、お祓いが行われていましたが、この時の仮宮は隣接する旧境内内にあって宿院頓宮と称しましたが、古くから当社と同一の扱いで、開口宿院とよばれた時もあったとのことです。
本殿。流造
【大念仏寺と薬師如来坐像】
当社は堺の総氏神でしたが、「大寺さん」の通称で広く親しまれていました。これは、当社には明治維新まで大念仏寺が併存していた為で、林氏は当社の発展を海神祭祀の面だけでみることは適切ではない、と述べられます。「大寺縁起」によると、天平十八(746)年僧行基が神社境内に一寺を創建し、薬師如来を安置したのに始まりました。その後の弘仁年間(810~824年)にはあの弘法大師が参籠して真言密教の道場「密乗山大念仏寺」となり、明治の神仏分離まで寺僧によって社務も行われていたのです。
薬師社
中世の当社は多くの社殿・塔堂が建ち並んでいましたが、14世紀末から17世紀初めにかけて戦火に巻き込まれ、焼失と再建を繰り返しました。江戸時代になり時代が安定してくると、将軍家綱による社殿復興がされ、その後数多くの建物が再建されていきます。しかし、明治の神仏分離で大念仏寺が廃寺とされた事や、第二次世界大戦の空襲で焼失してしまったことなどで、江戸時代の建物は残っていません。「日本の神々」では、かつての名残として有名なものに「瑞森薬師堂」を挙げ写真も掲載されていましたが、現在の薬師社はその後建て替えられたもののようです。
薬師社に行基作との伝えがある本尊薬師如来坐像が祀られていて、年1回、2月3日の節分祭で御開帳されています。実は平安前期(10世紀頃)に制作されたと考えられている一木造の秀作でが、神仏分離後は、終戦まで倉庫に隠し置かれていたようです。
境内南東側の境内社
【海会寺の金龍井】
当社の堺山之口商店街側の表門前(見出し写真)に、海会寺の金竜の井が今も残っています。ここは海会寺の旧地だったところで、元弘(1332)年洞院公賢創立、広智国師が開山となり、正平六(1351)年伽藍を整備しましたが、旱魃の年に乾峰(けんほう)和尚が黄金の竜神の教えでこの井戸を掘ったらしいです。鶴の羽根を地面に敷いて露の多く浮いたところを掘って湧き出たことから、その名になったと伝えられます。
左から岩室神社・菅原神社。松風神社・舳松神社。塞神社・白髭神社
【天狗の伝説】
当社に伝わる伝説に、「三村坊の天狗」という話があるそうです。境内の瑞森楠に住み、神変自在の力をもっていた三村坊という天狗が、あるとき吉野の大天狗を問答をして負けたので、一夜、吉野へ飛んで行って、朱塗りの楼門を大天狗にあげた、という不思議な話です。三村坊の伝説は、「大寺縁起」の最後に書かれています。
竈神社
【堺の中心地だった境内】
当社は旧堺のほぼ中心部という交通の要衝に位置する為、明治維新後は一時境内に堺県県庁、堺市役所が設けられていました。また現在の府立三国ケ丘高校と府立泉陽高校が元々当社の境内に創立されていたようで、それぞれの創立発祥を記念する石碑が立てられています。また、歌人の与謝野晶子が幼少期に当社で遊んでいたということで、同郷の若い女性達の成長を願って詠んだ歌の歌碑も立っています。
大阪府立三国ケ丘高校発祥の地石碑。西鳥居近く
府立泉陽高校 発祥の地石碑と与謝野晶子歌碑。
【塩筒老翁神、住吉三神と浦嶋子】
塩土老翁神は、別称で塩筒老翁神とも書かれます。そして住吉三神も、筒之男神の三柱です。この「筒」が何を意味するかは諸説ありますが、「日本の神々 摂津」で大和岩雄氏は、「筒」を星の神とした吉田東伍説をヒントにした、倉野憲司氏によるオリオン座の中央にあるカラスキ星(参星)だとする説を支持されます。そして、野尻抱影氏の゛筒男三神が次々に海から生まれたとする神話は、(オリオンの)ミツボシが直立して一つ一つ海から現れる姿をしきりに思わせる゛という説を引用されます。
本殿の背側の境内社。それぞれ七社が一つの祠に祀られています
大和氏はこれを裏付ける話として、「丹後国風土記」逸文の浦嶋子の物語のある部分を検証されます。浦嶋子が亀から変化した娘に案内されて海中の竜宮城の門の前まで来ると、娘は嶋子を待たせて中に入っていきます。やがて、七童(わらわ)と八童が門の外に出てきます。彼らによると、娘は亀姫といい彼らは亀姫の夫だというのです。そこへ亀姫が門から出て来たので聞くと、゛七童は昴(スバル)星、八童は畢(アメフリ)星です。怪しむことはありません゛といって、龍宮城のなかへ案内し、亀姫は父母に浦嶋子を紹介した、という部分です。
ご祭神が腰掛けたと伝わる影向石
大和氏は野尻抱影氏が作図した、高松塚古墳天井の二十八宿の星座の図を示されます。そこでは中央の北極製の西南の方向に参宿(オリオン座)があり、その隣(北側)に畢宿(ひつしゅく、畢星)、さらに隣に昴宿(ぼうしゅく、昴星)があります。図では、昴星は七つ、畢星は八つです。一方、浦嶋子について「丹後国風土記」は、丹後国与謝郡日置里「筒」川村の日下部首等の先祖・筒川嶋子のこととする記載を挙げられます。そして、筒川嶋子は塩筒老翁とダブルイメージであり、上記の話は参宿の浦嶋子の処に(そもそも隣にある)昴宿、畢宿がきたという話なのです。つまり、「筒」が星であるので、浦嶋子の上記の件は成立しているということです。そしてそれが童なのは、海(ワタツミ、綿積)の神を「少童命」と書く事と関係するとされます。「古事記」には、綿積三神と住吉三神は同じと書かれます。
日下部の名を持つ氏族は陸奥から日向まで幅広く分布し、「和名類聚抄」ではこれにちなむ郷名は十七か国に存在すると「日本古代氏族辞典」に書かれています。そして、和泉国皇別に日下部首が見え、現在も堺市に鎮座する日部神社はそのHPで、和泉国の豪族・日下部首の一族に浦島太郎(浦嶋子)がいたとの伝えを明言しておられます。浦嶋子は現在もこの和泉の地に関わるようです。
境内
(参考文献:開口神社公式HP、堺市公式HP、沙界妖怪芸術祭HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 和泉」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)