[ つのさしじんじゃ ]
葛城市歴史博物館のすぐ南隣りにある、小さな境内ではありますが、拝殿直ぐ横の折れ曲がったような大きな大木などが生い茂り、鏡池あるいは蓮池などと呼ばれる池もあり、独特な雰囲気を醸し出す境内でした。夕方ということもあり、博物館の駐車所が幸いすいていたので、そちらに停めて参拝させていただきました。
境内。右の建物の場所に神宮寺があったようです
【ご祭神・ご由緒】
ご祭神は、「日本書紀」の顕宗天皇紀に゛忍海の角刺の宮で仮に朝政をご覧になった゛と書かれた飯豊青皇女またの名、忍海部女王です。
当社がいつから祀られるようになったかは明らかでない、と「日本の神々 大和」に木村芳一氏が書かれています。古い記録には全く見えず、永宝九(1621)年の「和州旧跡幽考」に゛角刺宮、忍海村にあり、西に西辻村、東に東辻村、南(北の誤り)に南花内村などといふあり、此忍海村や皇居の跡にこそあらめ゛と記されており、享保二十一(1736)年刊行の「大和志」も角刺宮について、忍海村にあり、清寧天皇が崩御し皇子の億計と弘計の兄弟が位を相譲った十カ月、姉の飯豊尊が此処に於いて政を聞いたこと。そして今は村民が祠を建てて祀り、域内に忍海寺と呼ぶ寺がある事を記しています。「大和志」のいう祠が角刺神社の前身だとすれば、江戸時代の享保頃には祀られていた事になります。
鳥居は拝殿の前です
【「古事記」「日本書紀」の飯豊青皇女】
飯豊青皇女については、記紀共に登場し、天皇不在の間にそれに相当する存在であったことが確かに偲ばれます。「古事記」での飯豊王は市辺押磐皇子の兄弟で、二人とも葛城曽都比古の子の葦田宿祢の娘の黒比売命と履中天皇の間の御子です。清寧天皇記の冒頭で、天皇が崩御なさった後、高木角刺宮にいらっしゃるとあります。播磨国で市辺押磐皇子(と葦田宿祢の子である蟻臣の娘・ハエ媛との間)の子である袁祁命(顕宗天皇)と意祁命(仁賢天皇)が見つかった際には、飯豊王が歓喜なさり、二王子を角刺宮にお上らせになったと記されます。その後、二王子が天下を譲り合われますが、飯豊王の事は以後書かれません。
拝殿
「日本書紀」では、履中天皇紀には、葦田宿禰の女黒媛が市辺押羽御子と青海御子~一説では飯豊皇女を生んだとする一方で、顕宗天皇紀には市辺押羽御子が億計王、弘計王と飯豊女王またの名忍海部女王を生んだと書いており、混乱があります。億計王、弘計王の発見は、清寧天皇が生存中であり、天皇が二人のこどもを賜った事を悦ばれています。その後、天皇が崩御され、二王子が位を譲り合う間の十カ月、飯豊皇女が角刺宮で朝政をご覧になった、と記されます。そしてその話の間に、忍海のその宮が立派な宮であったことを表現する歌が挿入されているのです。また清寧紀には、飯豊皇女が御子を授からなかったことや、御子を求めない旨の意味深な所伝が書かれています。
本殿
【飯豊天皇】
飯豊青皇女は「日本書紀」に゛葛城の埴口の丘の陵゛に葬られたとありますが、木村氏は皇女が実際に即位したか否かは明らかでない、と考えられます。「扶桑略記」「紹運録」は「飯豊天皇」とし、特に前者は、この天皇が諸皇之系図には載らないが、但し和銅五年上奏の日本紀に之が載っている、とことわっています。木村氏は、当社は市辺押磐皇子とともに名門葛城氏の歴史の掉尾を飾ったと伝えられる飯豊青命を記念するものとして、地元の葛城の人々によっていつしか祀られるようになったのであろう、とまとめておられました。
【北花内大塚古墳】
飯豊青皇女の゛葛城の埴口の丘の陵゛に治定されている、墳丘長90mの前方後円墳です。前方部を西南に向け、周濠が巡っています。後円部が約50mに対して前方部幅が約70mで、今城塚古墳と同様なプロポーションの後期前方後円墳。出土した埴輪からも5世紀末から6世紀前半の築造と見られ、これは飯豊青皇女の執政時期とあまり矛盾はない、と「大和の古墳を歩く」で森下恵介氏が書かれています。かつては「三歳(さんざい)山」とも呼ばれ、これは陵墓となる伝承がある古墳を「陵(みささぎ)」から転じてミサンザイ、ニサンザイなどと呼ぶことがあり、そこから転じたものと考えられます。
境内社の末吉大明神
「天皇陵を歩く」で今尾文昭氏は、「北花内」の地名は戦国時代の史料に出てきて、「花口」とも称され、陵名の「はにぐち」に通じるといいます。ここから被葬者が古くから飯豊青皇女だと考えられていたとみてよいようです。江戸時代となった天和元(1681)年、地元の新庄藩主桑山一伊が三歳山八幡宮を墳丘上に祀りました。そのうちには、飯豊天皇社も祀られていました。幕末の文久修陵の時の、修陵前の荒蕪図には確かに参道や鳥居、社殿および神主の居宅が描かれていますが、成功図では取り払われています。八幡宮は移転し、現在は、葛城市辨之庄に諸鍬神社として今も祀られています。
【社殿、境内】
当社の北川にある会所のような建物は、神宮寺であった忍海寺の跡と云われていて、観音像が祀られているそうです。
鏡池。飯豊青皇女が毎朝鏡代わりに使ったとの伝えがあるそうです
【長く変わらなかった忍海郡】
「謎の古代豪族葛城氏」で平林章仁氏は、当社の地は大宝律令制下に忍海郷(前は評)となり、狭隘な領域でありながら、その7世紀から明治30年まで存続した事に着目され、論考されています。上記の記紀説話の通り、飯豊青皇女や億計王、弘計王は葛城氏の色の濃い天皇と考えられます。既に葛城氏としては雄略天皇の時代に滅亡しており、その雄略帝亡き後の後継者不足の危機を葛城氏系の天皇を擁立する事で乗り切ろうとしますが、後ろ盾となる葛城氏はいない。そこで葛城氏の権力機構を支えていた忍海造氏(「日本書紀」で億計王、弘計王をかくまっていたのは「縮見屯倉首忍海造細目」)らの庇護・援助により天皇となれたのだろうという事です。
ご神木
忍海郷は、そもそもは安康天皇を殺害した眉輪王を葛城円大臣がかくまい、その罪を雄略天皇に問われた時に、その贖罪として葛城円大臣が天皇に差し出した「葛城宅七区」に由来し、天皇の屯倉になった(この地によって葛城地域を上郷と下郷に分断した)と考えられます。そして、それを継承したのが忍海角刺宮であり、それは葛城氏の旧所領を基盤としたものでした。その地はその後に葛城御県ともなり、皇室領を継承した地であったことから、後の歴史までも大きく規制したとまとめられていました。ただ、その目論見は十分な効果は挙げられなかったという事で、継体天皇への大王(天皇)系譜の移動となっていくのです。
東出雲伝承では、仁賢大王や武烈大王の頃にはオオド王が弟国宮を建てていて、淀川の中流に交易の拠点を造って勢力を高めていったといいます。一方、大王家は親族同志の対立抗争が絶えず、近畿の臣民には不評となり、その大王家に年貢を納める人が減少したらしいです。記紀で武烈大王がひどい事をした話が書かれていますが、それは中国の説明方法を真似たもので、自然と優秀な御方に期待が移って行ったという事だと説明されています。
一度倒れたのでしょうか…圧巻の形です
(参考文献:角刺神社境内掲示、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、谷川健一編「日本の神々 大和」、今尾文昭「天皇陵古墳を歩く」、森下恵介「大和の古墳を歩く」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、竹内睦奏「古事記の邪馬台国」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)