摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

宇治上神社・宇治神社(宇治市宇治山田)~みかえり兎と播磨国風土記の゛宇治天皇゛

2023年01月01日 | 京都・山城

 

新年の干支にゆかりのある神社の話題です。背後の仏徳山の裾に上下に並んで鎮座し、宇治川を挟んだ対岸にある平等院と共に、風光明媚な観光地・宇治の重点スポットとなっている二つの神社です。とくに宇治上神社は、最古の神社建築である事が2000年以降の科学調査でも改めて確認され、平等院とともに世界文化遺産の誉れを得ている事で知られます。

御利益としては、ご祭神・菟道稚郎子が学問・儒教を極めた頭脳明晰な皇子だったという伝えから、学業成就のご神徳で知られています。あの「源氏物語」の宇治十帖に登場する源氏の異母弟・八宮のモデルという話もあり、宇治神社正面にはそれに因む銅像もあります。イメージより意外に力強く感じられる宇治川の流れには、古代この地で争いが有った事が偲ばれました。なお、両神社を参拝するなら、宇治上神社の無料駐車場は使えず、他の有料駐車場を使う事になります。

 

・(宇治神社)一の鳥居

 

【ご祭神】

宇治上神社のご祭神は、菟道稚郎子、応神天皇、仁徳天皇の三柱。一方の宇治神社は、菟道稚郎子命をご祭神とされています。「日本の神々 山城」で山路興造氏は、執筆当時は共に(現宇治上神社の)三柱と書かれていました。明治時代以前は二社一体の社として、宇治離宮明神(八幡神)と呼ばれて、宇治上神社は離宮上宮、宇治神社は離宮下宮または若宮と称されていました。

ということで、「延喜式」神名帳では「宇治神社二座」とあります。この二座については諸説あるようで、菟道稚郎子は異論はないですが、もう一座については、仁徳天皇(「特撰神名帳」)、父の応神天皇、母の矢河枝比売(「宇治市史」)など諸説あると、山路氏は紹介されています。

 

・(宇治神社)拝殿--桐原殿

 

【ご由緒】

「日本書紀」仁徳天皇即位前紀に、応神天皇に皇太子とされていた菟道稚郎子が大鷦鷯尊に皇位を譲って自殺し、菟道の山の上に葬られたと書かれます。宇治神社のご由緒説明によると、古代の慣例では若い方が後を継ぐと一代の在位期間が長くなり国が反映するとされていたとの事。しかし、菟道稚郎子は博士王仁から儒教の思想を授けられており、長男相続論にこだわり、皇位を固辞し続け、譲り合いになったと説明しています。その墓については、「延喜式」諸陵寮に゛在山城国宇治郡、兆域東西十二町、南北十二町、守戸三姻゛とみえています。

 

・(宇治神社)中門から本殿望む。中央に小さく写るのが「みかえり莵」

・(宇治神社)本殿。境内には、「みかえり兎」がもう一羽、等身大石像が2羽、確かにおられました。

 

宇治神社の方ではさらに、神使として兎を「みかえり兎」と呼んで、その信仰を伝えています。つまり、菟道稚郎子が河内の国から当地に向かわれる途中で道に迷って困っていた時、一羽の莵が現われ、後からついて来られる菟道稚郎子を振り返り振り返り先導したという伝えです。この話より、道徳に叶った正しい人生の道を歩むよう教え諭す神様のお使いとして信仰されるようになりました。そしてここから、「菟道」をウヂと読み、「宇治」の地名になったと説明しています。

 

・(宇治上神社)一の鳥居

・(宇治上神社)さわらびの道の奥に、お寺のような小さな正門が見えます

 

【鎮座地】

「山城国風土記」逸文では、゛宇治と謂うは、軽島の豊明宮に御宇しめしし天皇のみ子、宇治若郎子、桐原の日桁の宮を造りて、宮室と為したまひき、御名に因りて宇治と号く゛と菟道稚郎子が宇治に離宮を営んでいた事を伝えています。その離宮の地が宇治上神社の鎮座地にあたると伝えられているのです。その境内や付近には、天降石や岩神さんと呼ばれる巨岩が有る事から、当社は磐座信仰に由来する社だという説もあります。

 

・(宇治上神社)国宝の拝殿。左右対称でないのもポイント

 

【社殿、境内】

宇治神社の本殿は、三間社流造・檜皮葺で、鎌倉時代に築造され重要文化財です。その中央には菟道稚郎子像と伝わる平安時代作の神像がまつられています。こちらも重要文化財です。

 

・(宇治上神社)拝殿。一般的な神社では見られない造りです

 

そして、宇治上神社の本殿。わが国最古の神社建築として有名で、国宝です。一間社流造の社殿三棟を一つの覆屋でつなぐという特異なもので、2004年に宇治市などが行った年輪年代測定法による調査で、改めて本殿が平安時代末期の建築である事が裏付けられました。特に三棟のうち左右の社殿の蟇股は古い様式を伝えるもので、日本三蟇股の一つとまで言われます。この本殿、本来は左右二棟で、「延喜式」の二座は現在の宇治上神社のみを指すとの説を、志賀剛氏が「式内社の研究」で述べていたようです。

宇治上神社では拝殿の方も鎌倉時代初期のもので、こちらも国宝。上記した2004年の年輪年代調査でも確認されています。寝殿造の遺構で、切妻造・檜皮葺の姿はまことに美しい、と先の山路氏が書かれていました。また、境内の春日神社の社殿も重要文化財に指定されています。

 

・(宇治上神社)本殿

 

 

【祭祀・神事】

平安時代後期から中世前期にかけては、旧宇治離宮明神の神事であった宇治離宮祭が盛大に行われていました。そもそもこの近辺の宇治川両岸には摂関家を始めとする貴族の別業が多くあり、彼らがこの祭礼を支援していたことが大きかったようです。その様子が、「中右記」という書物の1133年に記されていて、見物下人が数千人もいて、川岸の小船が数千艘あったという文言も見受けられます。また、真木島(槙島)郷の住人と宇治郷の住人が競馬十番をする記述もありますが、ここからこの祭礼がこれらの住人により催行された事がわかります。後には槙島郷の人々が宇治上社を氏神とし、宇治郷の人々が宇治神社を氏神とするようになりました。

 

・(宇治上神社)本殿

 

その離宮祭も、鎌倉時代後期には貴族の没落などにより衰退したようですが、それに代わってこの郷村を基盤とした宇治猿楽の座が盛んになっていき、宇治離宮明神を本拠として南山城や、興福寺大乗院の保護も有って大和国で活躍しました。中世後期から近世にかけての離宮祭でも神事能が演じられていたと考えられますが、古い資料が残ってなく、近世に翁舞が藤井香大夫によって演じられていたことが「兎道旧記浜千島」にみえ、宇治神社に「雪掻きの面」と呼ばれる翁面が残るのみだということです。

 

・(宇治上神社)桐原水の手水舎。

 

【菟道に至った莵の伝承】

宇治神社は、宇治は菟道からきたのであり、それは兎(ウサギ)から来たと公式に説明されています。一方、今から30年以上前に、大分県の古代宇佐(菟狭)氏の末裔で、戦前まで宇佐八幡宮(宇佐神宮)の宮司を務めた家のご子息である宇佐公康氏は、菟狭は兎(ウサギ)から来た氏族名だと述べています。月の満ち欠けや昼夜の別を目安に、月読(ツキヨミ)や暦(コヨミ)の知能を持った氏族で、肉眼で見える満月の表面の濃淡がウサギに見える事から、月をウサギ神として信仰し菟狭(宇佐)氏と名乗ったと、「古伝が伝える古代史」できっちりと説明されています。これは、東出雲王国伝承でも引用されています。

 

・(宇治上神社)摂社の春日神社。こちらは重要文化財。その奥には厳島社、稲荷社が並びます

 

そして宇佐公康氏は、菟道稚郎子の父君応神天皇は、菟狭氏の族長であり、宇佐で生まれ中央に進出して政権を樹立したと語ります。この応神天皇の出自についての説明は、宇佐家古伝と東出雲伝承で異なり、一方の出雲伝承の話は少々複雑で、例えば応神天皇は上毛野国で生まれた(゛竹葉に立ちて宣く゛)御方だとしています。ただ、宇佐氏(と物部氏系)の血筋である事では両者は共通しているのです。これら伝承を踏まえると、宇治神社が明確に兎を信仰(神ではなく神使)している事に痛快さを感じます。そして、本当に正しい道筋へ導いてくれる、古い歴史を秘めた神様だと思いたくなってきます。

 

・(宇治上神社)昔社殿が立っていたという場所の磐座

 

【「播磨国風土記」の宇治天皇】

「播磨国風土記」に菟道稚郎子は「宇治天皇」と記されていて、出雲伝承はこれを認めます。それで、「日本書紀」のような菟道稚郎子と大鷦鷯尊の美談で権力が継承されたかというと、あくまでそうであって欲しいという理想的なお話であり、ここの処が実際は「宇治の戦い」だったと斎木雲州氏や富士林雅樹氏は主張されます。それでは、戦死したとされる大山守皇子はどんな御方なのかというと、前田豊氏は「徐福と日本神話の神々」で、大山守皇子は東国へ逃亡し、富士古文献「宮下文書」を守護する大宮司長になった、という説明をされていました。しかし一方の出雲伝承では、大山守皇子についてはあたかも実在しなかったかのようにその名前すら語られません。

富士林氏は、菟道稚郎子自身やその母君、そして皇后(天皇だったから皇后もいる)や妹君(八田皇女)らの古墳が、奈良県の佐紀古墳群に有るとして、「仁徳や若タケル大君」でそれぞれ特定されています。個々の特定はともかくとして、それら佐紀古墳群の多くの築造時期がほぼ百舌鳥・古市古墳群の初期の大古墳(石津ヶ丘ミサンザイ古墳誉田御廟山古墳大山古墳)などと同時期であるとする近年の古墳年代推定とは、なんとなく合うように見えます。ヤマトの政権から難波・河内王朝へ移った後も佐紀古墳群で古墳が造られたのは、その為らしいです。そして、百舌鳥、古市、佐紀がそれぞれ離れている事も、そういうことなのかな、と思えてきます。つまり、仲が良くなかったということらしいです。

 

・宇治川

 

(参考文献:宇治神社・宇治上神社公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、谷川健一編「日本の神々 山城」、今尾文昭「天皇陵古墳を歩く」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、前田豊「徐福と日本神話の神々」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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