大分県宇佐市の"宇佐八幡"です。全国で4万を超える八幡神社のここが総本宮。そして、古代史ファンには、邪馬台国との関係も取り沙汰され、想像力を掻き立てられる由緒ある神社であり、是非一度行っておきたいと九州まで足を運んでしまいました。夏の暑い最中で歩き回るのは少々きつかったのですが、小椋山の森の中に鎮座する堂々たる社殿群は見ごたえがありました。例によって、谷川健一編「日本の神々 九州」の田村圓澄氏の文章を参考に、何回かに分けて情報をまとめたいと思います。
・神橋を渡って大鳥居へ
・右を向くと武内宿祢を祀る黒男神社があります
【歴史の表舞台に登場した宇佐八幡】
もっとも、古代史で注目というものの、この神社は記紀には一切登場しないのです。歴史の表舞台に登場するのは、740年に聖武天皇が奈良に盧舎那仏(大仏)を造立する事を思い立ち検討している段階で、宇佐八幡が”天神地祇を率い誘いて大仏の造立を必ず成就せしめるであろう”との託宣を下した時です。これが聖武天皇を大いに勇気づけたと云います。
その後も、747年には、大仏の為に必要な黄金は”陸奥国金華山にあり”とおおせられたり、さらに769年には天皇の座を狙った道鏡に関し、宇佐におもむいた和気清麻呂に”皇位には皇諸を立てよ、無道の人は早く掃い覗け”と託宣するという、奈良時代の国家の方向性を決定づける託宣をいくつも下した話で有名となり、こうして記紀の完成後に宮廷との関係が突如として起こったと考えられています。そして、平安の世の859年、宇佐宮を訪れた行教への託宣により京都の石清水男山に勧請され、その石清水八幡宮は長く国家第二の宗廟として崇敬を受ける事になるのです。
・神社でも神仏習合の元祖である事をPR
では、なぜ突如として歴史の表舞台に躍り出たのかというと、仏教との神仏習合の教えが最も進んでいた地だったからと考えられています。7世紀後半の九州の寺院数を見ると豊前が最も多く、これらは後の宇佐神宮の神職となる大神(おおが)氏や辛島氏などの朝鮮渡来系とされる豪族により建立されており、こういう中で神仏習合の教説が、奈良より早く、新羅から直接伝えられたと推定されているのです(なお、宇佐の大神氏は、大和の大神(おおみわ)氏の庶流であるとの見方もあり、気になります)。
・弥勒寺跡地。参道を外れ八坂神社の前まで行きます
そして、740年の大宰府の藤原広嗣の反乱を平定した翌年、奈良政府の手で、日本初の神宮寺(神社に付属して建てられた寺院)である弥勒寺が宇佐神宮境内に建立されることになります。今もその跡地を確認する事が出来て、当時としては画期的な併存プランの重要性をなんとか今に伝えています。この後、元々の「仏教帰依」から、奈良大仏造立以降は「仏教擁護」に転身していくのです。
・ここから上宮へ上っていきます
・結構登ります
・宇佐鳥居。神宮の鳥居はすべてこの鳥居にならい額束がありません
・西大門
【奈良時代以前の宇佐八幡】
では、奈良時代以前の宇佐の八幡信仰の源流はどうだったのかというと、それが上宮の境内から遥拝できる御許山(おもとやま、宇佐嶋)を神体山とする奥宮信仰であり、その山頂よりやや下った所にある3個の石体を神の宿る磐座としていたという、宮地直一氏の見解を基にした考えが一般的に理解されているようです。
・西大門をくぐると本殿の横に出ます
「宇佐家伝承 古伝が語る古代史」で、先代が宇佐神宮宮司で男爵公勲だった(戦後、返上して宇佐姓にもどった)という、宇佐国造直系の子孫である宇佐公康氏は、これが太古から菟狭氏族の氏上(族長)によって祀られた比売大神だとしています。この神が二之御殿に勧請されたのです。これは宇佐氏の母系祖神であり、いわゆる菟狭津姫命の事だとしています。そして、この話は東出雲王国伝承の中でも引用され、おおむね支持されています。
・朱が鮮やかで美しい上宮南中楼門にようやくたどり着きました
このように、この宇佐氏の神は一地方神であり、奈良時代になって仏教興隆の時流の中で、朝廷ないし中央貴族の信仰と信頼を集めていった、となるのですが、果たしてそれで自ら”天神地祇を率い誘う”事ができたのでしょうか、という事なのです。天神地祇とは天津神と国津神全てを含む、律令国家の支配者層が奉斎する神々の体系そのものなのですから。ここに古代史ファンのロマンが展開する余地が生まれるのです。つまり、この地が邪馬台国だったのではないか、との説の存在です。
・境内から御許山(宇佐嶋)を遥拝できます
実は、宇佐公康氏はそれをキッパリと否定しています。次回は邪馬台国関連やご祭神の応神天皇の事に触れたいと思います。
卑弥呼と比売大神が関係ないと考える方がおかしいですよね。宇佐神宮は日本建国の真相を解き明かす大きなヒントを与えてくれる古代史上最も重要な神社でした(*^▽^*)
同時代の人間が書いたコテコテの政治文書「魏志倭人伝」の邪馬台国への行程記事は、邪馬台国を置きたい場所に置くためのつじつま合わせでした。多くの研究者がそれに気付かず自説に都合の良い解釈をしていますが、それこそ二重のつじつま合わせですから、正解から遠ざかるばかりで収拾がつきませんでしたね(;´Д`)
そこに気付けば答えは簡単でした。范曄の後漢書の「女王國の東に千里ほど海を渡れば狗奴国に至る」を信じれば、後は狗奴国を考古学その他で特定すれば答えは宇佐ということになります。ちなみに狗奴国が纏向遺跡です。細かい話は「刮目天の古代史」へどうぞ(^◇^)
https://blog.goo.ne.jp/katumoku10/d/20190731
不躾なコメント、申し訳ありませんでした。
疑問点など、宜しくお願い致します。