関西地域では勝利祈願の御利益がある神社の一つとして知られ、あの阪神タイガースが必勝祈願祭を行う事でも有名な、由緒ある神社です。境内には球団が祈願で訪れた模様の写真も有り、多くのトラファンもあやかろうと参拝をされるそうです。「延喜式」神名帳では武庫郡の名神大社とあり、旧官幣大社。神階は868年に従一位に昇り、朝廷の尊崇最も篤い二十二社の一つ(下八社)にも数えられました。
神社から南に500mほどにある一の鳥居。見出し写真は二の鳥居です
【ご由緒】
当社の御由緒は「日本書紀」の中で、神功皇后が創祇したと記載されています。つまり、新羅遠征を終え忍熊王との戦いに向けて船で難波に向かっている時、船が海中でグルグル回って進まなくなりました。それで、武庫の港に還って占われたところ、最初に天照大神が教えて言われました。゛わが荒魂を皇后の近くに置くのは良くない。広田国に置くのが良い゛それで、山背根子の女、葉山媛にまつらせた、というもので、天照大神の荒御魂が本殿に祀られています。「日本書紀」ではこの後、生田神社と長田神社の創祇についての託宣が続きます。
注連柱
注連柱がもう一つ。「廣田の杜」には多くの野鳥が生息しているそうです
「日本の神々 摂津」で落合重信氏は、そのまま信じがたい、と書かれていますが、記紀とは別個に書かれた「摂津国風土記」逸文にも、゛皇后は摂津国の海浜の北岸の広田の郷においでになった。いま広田明神というのはこれである。それゆえにその海辺を御前の浜といい、御前の沖という。またその兵器を埋めた場所を武庫という。今は兵庫という゛とあります。
広々として整った境内。参道横には神池もあります
【祭祀氏族】
山背根子とは、「新撰姓氏録」に゛天御影命第十一世孫、山代根子の後裔なり゛と見える人物です。これについて落合氏は、この地方に関しては山背(山城)氏のことはあまり見当たらないが、「新撰姓氏録」にあるとおり、この時代に摂津とりわけ西摂に勢力を張っていたかに見える凡河内氏と山城氏が同祖とされるから、「書記」の伝承はその縁によると思われる、と考えられました。
丁度、拝殿・翼廊屋根の改修が始まる時期でした
佐伯有清氏の「日本古代氏族事典」によりますと、凡河内氏は天津彦根命の後裔氏族。本拠地は、摂津国菟原郡を中心とする西摂津地方であったが、大王家にとって政治的・軍事的に重要な務古水門を掌握していたことによって、河内・摂津・和泉を含んだ広い領域を統括する国造に任命され、支配領域下の渡来氏族や県・屯倉に対する編戸制的な人民支配を行ったとされている、との事です。また、「新撰姓氏録」摂津神別には、天穂日命十三世孫、可美乾飯根命の後裔として凡河内忌寸が載ります。
拝所より本殿を伺う
伊勢神宮の、昭和31年の式年遷宮の御用材で改築整備された、平入り神明造の本殿。「伊勢大神宮御同体」ならでは。
今は勅祭社16社には入ってませんが、昭和、平成と天皇の幣帛、幣饌を授かってるそうです
一方、広田という地名から広田氏だったのではないか、という説もあります。「新撰姓氏録」に゛広田連。百済国人辛臣君より出ずる゛とある氏族ですが、やはりこの地方には活動の痕跡はありません。現状としては、広田神社の祭祀氏族はまだ確定できない、と落合氏はまとめられていました。
本殿向かって右。第一脇殿・住吉三前大神、第二脇殿・八幡三前大神
本殿向かって左。第三脇殿・諏訪建御名方富大神、第二脇殿・高皇産霊大神
【西宮神社との関係】
この廣田神社は、神祇伯を世襲した白川家の最も重要な所領の地に鎮座していましたが、昔は西宮とよばれていたようです。「郡書類従」に収められる゛西宮歌合゛゛南宮歌合゛゛広田社歌合゛に関して、廣田神社の社頭で゛西宮歌合゛が行われたとあるのです。また、「伊呂波字類抄」には廣田社について、゛世俗、西宮と号ス゛とされ、この神社を顕広王が参拝したことを゛下向西宮゛としています。「淡路国大田文」では゛西宮御領広田社゛となっており、「類聚既験抄」にも゛広田明神号西宮゛とあります。対して、現在の西宮神社は戎社と呼ばれ、南宮(広田神社の別宮、現在は西宮神社境内に鎮座)と共に廣田神社の末社だったのです。
松尾神社と五末社(八坂神社、子安神社、春日神社、地神社、稲荷神社。珍しい小ぶりな神明造)
西宮の名称が戎社に移ったのは、戎社が次第に興隆し、上記三社が同格のように扱われ、広田、南宮、西宮と並列してよばれるようになってからです。1180年の輪田崎神幸の時点で、三社並称のようになってる記録があるのです。その後、江戸時代に現在の西宮神社が全国的に知られるようになっていきました。
式内社伊和志豆神社。神社はご祭神の一説として彦坐命を挙げています。神功皇后の先祖
【伝承】
上記の天津彦根命と凡河内氏の間には、天御影命がいるとされますが、東出雲王国伝承や「海部氏勘注系図」では、この御方が海部氏として分かれた始祖との説明で、天火明命の御子である天香語山命の孫であり、建田勢命の曾祖父だと云います。一方で、「先代旧事本記」の天香語山命の系譜では、天御影命は出てこないようです。出雲や海部氏の伝承の方を基準としてみると、定説とされる方は天御影命を海部&尾張氏系列から外して別系譜(具体的事跡のない天津彦根命の後)にしているように見えるのですが・・・
齋殿(ときどの)神社。ご祭神は当社最初の斎宮葉山媛命。鰹木もしっかり有る小さな神明造。
伝承では、丹後を本貫とするアマ氏の人たちが神功皇后の新羅遠征での功績を認められ、姫から海部の姓を与えられたと説明します。なので、凡河内氏も当社にかかわったという山背氏も、そもそもは海部氏系であるように見えてきて、それが後に凡河内氏や山背氏に分けて分類されるようになった(海部氏系の分断?)、とはならないでしょうか。古代のこの地域は、保久良神社同様に、要は海部氏ゆかりの地だったように見えてきます。一方、凡河内氏系の始祖に天穂日命が出てくるのは、その海部氏の祖先が、出雲国造の祖先である天穂日命に率いられて大陸から渡来してきたという、出雲伝承の話と関わるのかな、と感じています。
絵馬掛所に、平成31年の阪神タイガース優勝祈願の時の、矢野監督以下選手たちの写真が掲示されていました
(参考文献:廣田神社公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 摂津」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、梅原猛「葬られた王朝」、佐伯有清「日本古代氏族事典」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」、富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)