摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

日枝神社(ひえじんじゃ:千代田区永田町)~東京赤坂で篤く信仰される近江の山王信仰

2023年02月11日 | 関東

 

当社自体は古代史には関りはないのですが、やはり山王橋の近代的なエスカレーターの昇り坂を拝見したいこともあり、参拝させていただきました。丁度七五三の時期で、以前の経験からそれなりに賑わっているだろうと思ってお伺いしたら、びっくりするほどの混雑で、皆さま子供さん共々きっちりした御召し物だったりで(さらに、駐車場で摂社の写真を撮ろうとしたら、マクラーレンが入ってきたりして・・・)、さすが国会議事堂の裏の赤坂にある神社だ(?)と感心しました。そんな混雑で、その日は稲荷参道の写真撮影も断念し、もう一度参拝させていただいた次第です。

 

一つ乗っても、まだ上に複数のエスカレータがつながります

 

【ご祭神・ご由緒】

ご祭神は、大山咋神。「古事記」で、近江の日枝山(比叡山)や葛野の松尾にも坐す、と書かれている神様です。また相殿として、国常立神、伊弉冉神、足仲彦尊がお祀りされています。

当社は、1478年(文明十年)に、上杉定正の執事太田道灌が江戸の地に江戸城を築いたとき、武蔵国川越の喜多院鎮守である山王社(日枝神社)を勧請し、城の鎮護としたことに始まるとされています。しかし、紀州熊野の那智大社の「紀州熊野米良文書」の中の、1362年(貞治元年)の武蔵国熊野御師願文には゛武蔵国豊嶋郡江戸郷山王宮゛と書かれていて、文明十年より一世紀あまり前に既に後年の江戸城の地に山王宮が存在していたことが伺われる、と「日本の神々 関東」に川口謙二氏が書かれています。

 

拝殿

 

【川越の山王社と日吉大社】

上記した当社の元は、北武蔵の河越荘を中心に勢力をふるっていた河越氏(畠山氏などと同族で秩父氏の流れを汲む)の氏神社です。川越大師喜多院は、平安時代、淳和天皇の勅により天長7年(830)慈覚大師円仁により創建された勅願所であって、本尊阿弥陀如来をはじめ不動明王、毘沙門天等を祀ったのが始まりのようですが、お寺によれば仙芳仙人の故事によると奈良時代にまでさかのぼるかもしれず、伝えによると仙波辺の漫々たる海水を法力により除き、そこに尊像を安置したということです。

 

本殿を北側から。社叢の向こうです

 

その喜多院山門の北側にある日枝神社は、山王一実神道の関係から喜多院の草創時代から境内に祀られ、近江日枝神社(日吉大社)を勧請したものだと説明されています。河越氏は喜多院およびその鎮守・日枝神社の大旦那でしたが、一族の重長が江戸城に移り、江戸館に居住して江戸氏となり、その後裔が南北朝時代に河越氏一族の氏神を江戸館内に勧請して山王宮とし、のちに太田道灌が江戸城を築城した時に、北の曲輪近くの梅林坂に遷宮したものが永田町の当社だと考えられる、と川口氏は述べておられます。

 

・山王稲荷神社、八坂神社・猿田彦神社の拝所。一方通行です

山王稲荷神社(左)、八坂神社・猿田彦神社(右)

 

【近世以降歴史】

1590年に徳川家康が江戸城に入り、城内の模様替えをする際に、紅葉山に遷され神領五石を寄進しました。また、「徳川実記」東照宮御実紀附録第六には、゛かさねて半蔵門外に移し゛と記されていて、現在の千代田区麹町隼町に移転します。二代将軍秀忠の、1604年(慶長九年)から十二年の間のことのようです。その後、1657年(明暦三年)の明暦の大火で当社も類焼し、「徳川実紀」1659年(万治二年)四月二十五日の条に゛郭内日吉神社山王社さきの火災にかかりし後、松平主殿頭忠房邸跡に引うつされ、御造営ありしが、成功してけふ上棟なり゛と記されており、これが現在の日枝神社になっています。「江戸名所図会」には、゛日吉山王神社、永田馬場にあり、江戸第一の大社にして・・・゛とあります。明治時代以降は、山王宮や山王社から日枝神社へと改称し、明治15年に官幣中社、大正4年には官幣大社と高い地位を誇りました。

 

山王男坂側の鳥居。こちらが正面です

 

【社殿、境内】

社殿は美観とされていて、楼門と廻廊のみが1794年の火災で延焼・類焼しましたが、それ以外の本殿、幣殿、拝殿、透塀、唐門は、江戸時代の代表的な建造物として貴重なものでした。しかし、戦時の空襲で焼失、今のものは昭和33年の再建です。

境内には狛犬ではなく、猿の像が置かれています。当社によると、゛猿は御祭神の大山咋神の使いとされており、神様の使いの猿「神猿(まさる)」と言われ、敬われていた゛ようです。「マサル」が、「勝る」「魔が去る」と読みが近いことから、勝運の神や魔除けの神とされています。拝殿前に置かれる猿の像は、父親と子を抱く母親の神猿像です。

 

男坂を上って迎える神門

 

【所蔵神宝】

社宝は多数で、国宝指定の太刀銘則宗をはじめ、重要文化財の太刀が十四振もある他、上記した徳川家康の五石寄進の時のご朱印状などの古文書類、諸地図、絵図など多数が宝物殿に収蔵されて公開されています。

 

千本鳥居側の入り口

 

【祭祀・神事】

6月に斎行される当社の例祭は「山王祭」と呼ばれ、また「上覧祭」「御用祭」「天下祭」などとも呼ばれます。古くから江戸総鎮守の神田神社による神田祭とともに江戸の祭を二分し、隔年で山王祭は6月、神田は9月におこなれていました。「江戸名所図会」での神田大明神の条では、゛江府神社の祭礼は、永田馬場山王を第一とし、当社(神田社)これに次ぐ゛と書かれ、やはり日枝社を上位と見ていたことが伺えます。「天下祭」の呼び名は、三代将軍家光が当時の江戸城天主閣から観覧した記録が有るのを始め、代々将軍の上覧を仰いだことに由来するようです。

神田祭の祭囃子である神田囃子に対して、当社にも山王囃子と呼ばれる祭囃子があり、三味線、チャルメラを加えた壮麗なスタイルだった事が、残された絵図からしのばれるようです。その唯一の名残が、江ノ島の江島神社の末社八坂神社の祭礼で行われる「天王囃子」だと、川口氏は上記の書に書かれていました。

 

千本鳥居。下から

 

【総本社・近江の日吉大社】

滋賀県にある日吉大社は、比叡山の東麓に鎮座している、全国3800程あるとされる日吉神社もしくは日枝神社の総本社です。つまり、当社赤坂の日枝神社もその一つということです。日吉大社は現在も広大な境内を有して、比叡山延暦寺の守護神として平安時代から信仰され続け、「日吉山王」とも呼ばれます。本来は比叡山に因んだ「ヒエ」であり、のちに好字「日吉」が充てられるようになってから、近江の本社は「ヒヨシ」とも読まれるようになりました。他にも「比叡」「裨衣」そして永田町社のように「日枝」とも表記されます。

近江の日吉大社は、大きく分けて東本宮と西本宮から成り、境内の東方に位置する東本宮(二宮)の地の方が当社創祇の地になります。西方にそびえる牛尾山山頂の奥宮と、それに対する里宮から成っていて、大山咋神、亦の名山末之大主神を祭っているのです。「古事記」の大歳神の系譜にも、日枝の山に坐し、また葛野の松尾に坐すとあります(大山咋神の意味するものについては、松尾大社の記事で触れました)。一方、西本宮の創祇は、「日吉社禰宜口伝抄」によれば、天智天皇七年に鴨賀島八世孫宇志麻呂が詔して三輪明神(大神神社の大己貴命=大物主命)を比叡の山口に祭ったことに始まります。つまり、大津京の守護神として、大和の守護神である三輪明神を勧請したと考えられます。やがて、西本宮は天台宗と習合し日吉大社の中心的な存在となり、「大比叡宮」「大宮」と呼ばれるようになりました。

 

千本鳥居。上から

 

「出雲王国とヤマト王権」で富士林雅樹氏は、東出雲王国王家から大阪の高槻市を経由して大和に入った分家・登美氏の後裔が加茂建津乃身であり、その子孫の看香名男が日吉神社の司家だと、系図に記されています。ただ、本文での解説はなかったと記憶しています(斎木雲州氏も看香名男の前の五十手美を日吉大社の社家の始祖で鴨縣主だと書かれていました)。さらに系図的には、加茂建津乃身のところで太田田根子の太田氏と別れたと説明されます。その太田田根子の子孫が三輪氏で、大神神社の司祭氏族だと一般に理解されます。という事は、宇志麻呂は看香名男の子孫で、日吉大社の起源となる大山咋神はその鴨氏が祀っていたものであり、そこに太田田根子後裔の三輪氏の信仰が、近江の地で再び合流したように理解したくなりますが、どうなのでしょうか・・・

 

母子神猿

 

【日吉山王】

「山王」の名は、日吉社と比叡山延暦寺の密接な関係に由来するとされます。牛尾山の山麓で生まれた最澄(伝教大師)は、比叡山に延暦七年(788年)比叡山寺(延暦寺の前身)を創建しました。その弟子円仁(慈覚大師)の時に、日吉社の神を比叡山の地主神、天台宗の護法神とする信仰が定着します。この日吉社の神が山王と呼ばれるようになったのは、天台宗の本山である中国の天台山国清寺が、天台山の地主神である゛山王元弼真君゛を護法神として祀っていたことによるとされています。つまり、中国仏教の表現を持ってきたということのようです。

「山王」のそれぞれの文字は、「川と一」「三と1」に分解することができることから、天台教義である一心三観、一念三千の理をあらわすとも言われています。こういう話はだいぶ難しいですけれども、漢字の形態にも隠れた意味があるのかと感心します。

 

父神猿

 

(参考文献:日枝神社公式HP、喜多院公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、谷川健一編「日本の神々 関東/近江」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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