摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

常陸国一之宮 鹿島神宮(鹿嶋市宮中)~鹿島神の本質と「三代実録」に見る那珂(仲)国造

2023年03月11日 | 関東

 

東京、関東に滞在するとなると、やはり参拝しておかないとと思う神社の一つでした。現在も定期的に天皇の幣帛を受ける勅祭社です。関東地方の事情に疎い大阪人からすると、東京からすんなり電車を乗り継いでいけるのかと思いきや、少し調べて高速バスで行くものだと理解できました。しかし、東京駅八重洲南口から丁度2時間高速バスに揺られ、神社まで5~10分程度あるけば神社にたどり着けるわけで、実にのんびり、ゆったりした休日を過ごす事ができました。さすがの有名神社で、普通の土曜日でしたが、拝殿や奥宮では参拝までに10分程度並ばなければいけないほど、参拝者で賑わっていました。

 

・露店の並ぶ先に楼門が見えます

 

【ご祭神・ご由緒】

ご祭神は、武甕槌大神。この神様は香取神宮のご祭神である経津主大神と共に出雲の国に天降り、「国譲り」を成就した建国の神様として有名です。当社の創建については、神社のよると初代神武天皇にまで遡り、神武帝御東征途中の熊野において、武甕槌大神の「韴霊剣」の神威によって救われた事に感謝され、皇紀元年に大神をこの地に勅祭されたと説明されています。なぜ、この地だったのでしょうか。

 

・楼門前から左に入った坂戸社・沼尾社遥拝所。今も坂戸社の方が前に表記されます

 

「日本の神々 関東」で大和岩雄氏は、記紀神話のタケミカヅチと鹿島の神をストレートに結びつけると、その本質が見えなくなるとのお考えで論考されています。タケミカヅチの古代の文献における初見は、斎部広成の「古語拾遺」(807年)が゛武甕槌大神 是甕連日神之子、今常陸国、鹿島神是也゛とあったり、正史としては「続日本後紀」836年の゛常陸国鹿島郡建御賀豆智命正二位゛が最初であり、「続日本紀」777年ではまだ゛内大臣従二位藤原朝臣良継病あり、その氏神鹿島神を正二位、香取神を正四位に叙す゛とありタケミカヅチ神は出てこないのです。大和氏は、タケミカヅチは文献で見る限り、9世紀以降からの祭神名だとされます。

 

坂戸社・沼尾社遥拝所と一緒にある須賀社

 

【鹿島神宮成立の経緯】

当社の始まりについては、「常陸国風土記」にそれと思しき記載があります。つまり、゛天の大神の社(鹿島神宮のこと)、坂戸の社、沼尾の社、三処を合わせて、全て香島の天の大神という゛などです。横田健一氏は、三社をあわせて一つの神格ができるとはおかしいと述べられていましたが、これに関して大和氏は、もともと坂戸社・沼尾社がワンセットで、「常陸国風土記」に天智朝にはじめて使人を遣わして゛神の宮を造らしめき゛と書かれた初めての神宮が天の大神の社だと考えます。そして、坂戸社・沼尾社の性格を天の大神の社が受け継いだから上記のように書かれたのであり、元々の中心だったのは坂戸社だと考えられます。ここでの「坂」には上り下りの坂でなく、境・界の意味であり、古くは坂はある地域と他の地域の境界であり、これを越えると異郷と考えられていたのです。一方、「戸」は「門」と同じです。

 

・同じ場所にある、手前から熊野社、祝詞社、津東西社

 

「日本書紀」大化元年(644年)の東国国司への詔に、゛辺国の近く蝦夷と界接る処には、尽に其の兵を数え集めて゛とあります。さらにその四年後、海上国と那珂国のそれぞれ一部を割いて香島郡が神郡としてつくられることから、蝦夷地に対する進出の港としての役割があったと考えられます。そして、「日本書紀」斉明天皇五年(659年)には、"船師百八十艘を率て、蝦夷国を討つ゛と出てくるのです。「カシマ」は「カシシマ」であり、その「カシ」とは船をつなぎとめるために水中に立てる杭のことです(これが転義したのが「河岸」)。

 

・日本三大楼門の一つで、重要文化財の楼門

 

【摂社 息栖神社の岐神】

当社から10キロ弱南にある神栖市息栖の摂社息栖神社の主祭神は岐神ですが、大和氏は「岐」を「クナト」「フナト」と読まれます。そして、「日本国語大辞典」の記述として、゛道の分かれるところに立って種々の禍災をしりぞけ、旅人の安全をはかるという道路の神、ちまたのかみ。さえのかみ。道祖神゛と説明します。息栖神社の文章には、主神を猿田彦神とする記事が有るようですが、坂戸社のそばに猿田の地名があるのは、猿田・坂戸が境の神の名として結びつくからだとしています。

 

・境内。令和の大改修で拝殿・幣殿が改修中でした。人の列は拝殿参拝待ちです

 

野本寛一氏が、岩手県和賀郡湯田町野々宿の境の山には「カシガ様」(カシマ様)という高さ四メートル余の巨大な藁人形が立てられており、その人形には勃起する巨大な木の男根がとりつけられている事を紹介されています。大和氏は、この猿田彦的男根が「カシマ様」の実体であり、この「鹿島人形」を霞ヶ浦付近でもつくる風習があるようです。

 

・拝殿内部を伺う

・拝殿の屋根は、昨年ニュースで拝見したように、既に葺かれている感じでした

 

【鹿島の甕信仰と蛇神】

鹿島には「甕(ミカ、壺)」の伝承が多く、大和氏は鹿島神が海の大神として船にかかわるからだと説明します。例えば、1256年に鹿島を訪れた藤原光俊が、鹿島という島に大きなつぼが半ば埋もれてあったと記す「扶木抄」の記述を始め、「新編常陸国誌」にも鹿島に神代からの壺があり、その傍らに甕山という小島があった伝承、鹿島の海底に景行天皇によりこの地にもたらされた大甕があり、それが鹿島明神のご先祖を祭る壺であり、その地は昔は陸だった伝承、などなどです。また、「琉球神道記」の゛鹿島明神のこと゛では、鹿島明神は人面蛇身で、常州鹿島の浦の海底に居し、顔面に牡蠣を生ずることなど海神安曇磯良と同じに見立てられています。大和氏は、「琉球神道記」の話を無視出来ないとし、これら伝承と鳴門の淡路や対馬の大甕伝承とを列記して、これらが重なると考えられていました。

 

・本殿。極彩色が見ごたえありました

 

そして、甕は神の依り代なる聖器なので、甕そのものも勢威をもつものとみられたのであり、したがってタケミカヅチノ神が<ミカ>の勢威、もしくは<ミカ>に宿るものの勢威を神格化した存在であったという吉井巌氏の推定に大和氏も同意され、甕の「勢威」つまり霊力が「御雷」とも書かれるとされています。甕は荒ぶる神をとじこめることによって、それ自身、荒ぶるものでありうるからです。そして、八岐大蛇神話で酒を醸させることを゛酒八甕を醸み゛と表現して八岐大蛇に酒を吞ませるのは、荒ぶる神を鎮めるには荒ぶる力の発現を擁するという観念によるとし、その甕の性格こそ、鹿島神が単なる道祖神的坂戸神から剣神・武神になった理由だと考えられていました。

 

・本殿背後には、樹齢1400年というご神木。

 

なお、「琉球神道記」の人面蛇身の話に関わる話としては、宮井義雄氏による゛謡曲の常陸帯(鹿島神宮の正月の神事の一つ。神前で禰宜が、男女の名を記した帯の先を結び合わせて、結婚の相手を占った習俗の事)に、鹿島神が「我、劫初より此の方、此の秋津洲に住んで、其のかたち八尺の白蛇と同じ」と述べるところがあり、鹿島神の顕現形相の一は蛇体である゛とするお考えもあり、大和氏は三輪伝説と共通するものとみておられます。

 

・拝殿真ん前に鎮座する高房社。ご祭神建葉槌神。出雲伝承では、西出雲王家系高鴨氏の始祖らしいです

 

【「元鹿島の宮」大生神社】

行方郡にある大生神社には、「元鹿島の宮」と呼ばれる伝承があります。当社禰宜を務める家柄である東家の「鹿嶋大明神御斎宮神系代々」に、平城天皇の御代の大同元年(805年)に、蝦夷征伐のための東征のため官軍が常陸国行方郡に陣を敷いた時、戦場加護のため春日大明神の幣帛を奉じ、営中で斎宮と当禰宜常元らが大生大明神を祭祀したとあり、゛大生宮者南都大生邑大明神遷座、故号大生宮゛と記されています。この「南都大生邑大明神」とは、大和つまり奈良県田原本町にある多神社の事です。さらにこの後、大同二年に東夷が帰順すると、勅によって大生宮から鹿島大谷郷に遷座したと記します。これが、「ものいみ書留」の、゛大生宮より今のかしまの本社へ御遷座」にあたるのです。

 

・仮殿。旧本殿を奥宮に曳いて遷した際に、いったんここに御神体を遷したそうです

 

上記した経緯は、中臣連家長が書き改めたものだと奥書にあります。大和氏は、藤原・中臣氏に対して多氏は後世に地位が下落しているのだから、中臣連の系譜を飾る為に大生宮の事を入れる必要はなく削るのが普通であろうが、わざわざ大和国の多氏の神社を移したと説明するのは、鹿島神宮の中臣連にとって大生神社を無視できない事実の重さが想定されると言います。「元鹿島の宮」伝承には下記に記載するような背景があり、けっして史実を伝えている訳ではないようです。

 

・奥参道。鬱蒼とした社叢が十分堪能できます

 

【奥州鹿島社の祟り事件】

太田亨氏は、那珂国の国造は多氏であり、そこから割いた神郡の鹿島郡の大部分も多氏配下の地で、鹿島神宮鎮座地の領主だったと考えられます。それは、陸奥国で一番鹿島神宮の分社が多い磐城郡の国造が多氏であることが「古事記」に書かれている事からも言えるとします。そのような状況下で、「三代実録」貞観八年条に鹿島神宮司の言として、ある事件が書かれています。延暦(782~805年)から弘仁(810~823年)のころは、鹿島神宮から「春日祭料」とともに、陸奥国の鹿島苗裔神(分社三十八社)にも封物を奉納していましたが、その後春日大社だけに祭料を送るようになったため、陸奥国の鹿島苗裔神が祟ったというのです。なので、嘉祥元年(848年)に彼の地に奉幣に向かいましたが、陸奥国は関に入るのを許しませんでした。つまり陸奥の鹿島分社の神官だけでなく、陸奥国の役人も同調していたということです。

 

・奥宮までの途中にある鹿園

 

鹿島神宮と香取神宮の分霊が大和国の春日へ遷されたのは、765年から768年の間とみられます。つまり、このあたりの時期に春日大社が創建したと想定されます。そしてその直前、746年に中臣部・卜部を中臣鹿嶋連として、鹿島神宮の祭祀氏族に成りあがらせた、つまり祭祀氏族が変わったと大和氏は考えられます。そもそも大化五年の神郡設立には藤原鎌足のバックアップで中臣氏が動いたが、この時点ではまだ卜占の技術で仕えていた卜部が中臣氏の職掌であり、祭祀氏族ではなかったのです(中臣氏が祭祀したのは、河内の枚岡神社)。

 

・奥宮。元々は、現在の本殿の位置に徳川家康が奉納した本宮

・奥宮の背後にもご神木があります

 

上記の陸奥の鹿島神の祟りの話は、中央政府によって鹿島神宮の祭祀氏族を変更した結果としてのニセモノの「今の鹿島神」つまり「春日風鹿嶋神」に対する、「昔の鹿島神」を信仰する分社との間だけにとどまらず、地方政府も巻き込んで抵抗したことの現れでした。それを鹿島神宮のある常陸国庁ではなく中央政府に上言して陸奥国庁への下知を請願しなければいけなかったところに、混乱の大きさが偲ばれます。

 

・奥宮から要石に行く道中にある武甕槌大神

 

上記した、鹿島神が大生神社から移ったものとする話は、本来の鹿島神宮の祭祀氏族が多氏である事を示すための伝承が、そのような話に変わったものであり、春日大社の分霊が遷された後の「今の鹿島神」は、藤原・中臣氏の氏神となったのです。なお、「大同二年」に鹿島へ遷座したという時期については、関東・東北地方の社寺縁起は、坂上田村麻呂と結びつけて大同元年、二年をさかんにつかうので、この年号はあまり信用できないと大和氏は云われます。鹿島神領の設置によって、鹿島神宮が国家規模の蝦夷地進出の守護神になったため、その時点で大生神社が多氏の私的祭祀の氏神として創祀されたのだろうし、それは周囲の古墳群からも裏付けられると、大和氏はまとめられていました。

 

・要石の垣。社叢の奥の奥です

 

【社殿、境内】

現在、令和の大改修として、令和8年(2026)に斎行される十二年に一度の大祭「鹿島神宮式年大祭 御船祭」に向け、幣殿・拝殿・奥宮・楼門の修繕工事が進められています。奥宮は昨年完了しましたが、現在は拝殿・幣殿が2024年上旬完了を目標に進んでおり、終われば楼門に取り掛かる計画のようです。

 

・要石の様子

 

本宮社殿は1619年造替の極彩色の権現造で、本殿、石の間、拝殿ともに重要文化財です。奥宮の社殿は、1605年に本宮として徳川家康が造営したものを元和の本宮造替の際に移したもので、こちらも重要文化財です。「延喜式」臨時祭には、鹿島社の本殿は二十年に一度改築するとありましたが、今は行われていません。本殿社殿は北面していますが、その神座は東面しています。大和氏は、坂戸神社(坂戸社)も正殿、神座ともに東面する事を付記され、東の海岸にある明石の鳥居は坂戸神社に対するものだと考えられていました。

 

・御手洗池。さすが澄んでいました

 

【伝承】

もともと鹿島神宮を祭祀したという那珂(仲)国造について「古事記」では、神八井耳命の子孫であり、多臣や伊予国造と同祖だと書かれます。東出雲王国伝承を語る富士林雅樹氏によれば、これは二代目沼河耳大君との勢力争いに敗れた神八井耳命の子孫が伊予国に移住し、さらに後の常陸国に移住して仲国造・武借間となった系譜だと説明されます。また、ここでは西出雲王国系の高鴨氏も同行したらしいです。谷日佐彦氏は「事代主の伊豆建国」で、伊予国から常陸国への移住は、まず3世紀の九州日向勢力の大和東征に同行し、さらに東征後の新たな大和の大君から東方への進軍を指示された結果、伊予国の人々が船で鹿島地域にたどり着いたと説明されます。そして出雲伝承は一貫して、始祖である神八井耳命は、東征勢力前の初期大和勢力だった、出雲王家系(出雲国造系でない)と丹後アマ(後、海部)氏系の血を引く御方だと主張しています。さらに、海部氏は阿曇氏と親戚だとも言います。

 

・御手洗池前に鎮座する大黒社。ご祭神は大国主命

 

大和岩雄氏による鹿島神宮の信仰の本質の説明を拝見すると、出雲伝承の語る出雲や海士・海部との関りを感じたくなる説明が多く、興味深かったです。「鹿島人形」は斎木雲州氏が書かれていた出雲王国の峠道に置かれていたという「サルタ彦人形」が思い出されますし、摂社息栖神社については、上記した九州東征勢力に協力した「野見宿禰部隊」が関東に進出して、出雲井神を祀った於岐都説神社だったと、谷氏は書かれています。さらに、鹿島神は人面蛇身で、自らを白蛇だと言い、三輪伝説と共通するのです。また、海神安曇磯良と同じだとされたり、航海安全を祈願するという御船祭を十二年毎に執り行う事は、海部との繋がりと見たくなります。あくまでロマンでしかありませんが、心に留めたいです。

 

・鯉と思しき魚がが泳いでいました。水平に生える大木が迫力

 

その一方で、出雲伝承において、仲(那珂)国造・武借間の子孫が中臣氏だと主張しているのは、上記した大和氏などの論考と異なっています。そして出雲伝承では、宮中祭祀の中臣氏は鹿島神宮の元神官(一般には国家の官吏と解される)卜部家の分家であり、占部鎌子(鎌足)は鹿島神宮の社家の出身だとしているのです。しかし、上記した奥州鹿島社の祟り事件を拝見すると、もし仲(那珂)国造が古墳時代から中臣系で、神官という地位が高そうな氏族だったとしたら、それが中央から位を上げられたくらいでこれほど激しくもめることはないだろう、と疑問が湧いてきます。そして、古典から読み取れるように、鹿島神宮が天智天皇の時代に創建されたのなら、神官だったというのは中臣鎌足がいた時代の話になり、それは当然でしょう、とも感じます。仲(那珂)国造が中臣氏だと考えられる一般の研究者もおられますので、素人に厳密な判断は出来ませんが、兎にも角にも貴重な過去の調査・論考を学ぶことが出来て、面白かったです。

 

・湧き出し口。寒い時期のせいか、温かく感じました

 

(参考文献:鹿島神宮公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、「角川日本地名大辞典」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、谷川健一編「日本の神々 摂津」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 出雲伊波比神社(いずもいわ... | トップ | 香取神宮(香取市香取)~石... »
最新の画像もっと見る

関東」カテゴリの最新記事