摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

科長神社(しながじんじゃ:南河内郡太子町)~推古天皇陵を始め磯長谷古墳群と当社の関り

2023年01月28日 | 大阪・南摂津・和泉・河内

 

大阪府の中でものどかな風景が残る事で有名な、太子町の磯長谷を自転車でのんびり散策するつもりが、予報に反して雨が止まず、しかも以下にも記載したこの地ならではの通り抜ける風が強くなり、少し余裕のない状況での散策となりました。それでも、風神様に少々手荒くお迎え頂いてこの地特有の風土をたっぷり堪能出来た事が有難かったと思うようにしました。大和高市郡の「遠つ飛鳥」に対して、「近つ飛鳥」と呼ばれ、大阪府の古墳時代の遺物を中心に展示する近つ飛鳥博物館があります。

 

二上山の麓で、近つ飛鳥博物館から科長神社まではなだらかに登り続けます

 

【ご祭神・ご由緒】

ご祭神は十柱の神々で、級長津彦命、科長戸辺命、天照大神、速素戔嗚命、天児屋根命、武甕槌命、経津主神、建御名方命、誉田別命、そして日本武尊が祀られています。江戸時代以前は俗に「八社大明神」と呼ばれ、級長津彦命、科長戸辺命を一神とし、日本武尊を除いた八神が祀られていましたが、惣社的な色彩が現われた元禄以降に日本武尊を組み入れたと考えられる、と「日本の神々 河内」で古田実氏が書かれています。

 

科長神社境内

 

【鎮座地、祭祀氏族】

創立の時期や祭祀氏族については、古田氏は不明とされていましたが、社伝によると、もと二上山にあって風神の級長津彦命らを祀っていたようです。二上山付近は、河内から大和方面に吹き抜ける風が通る道として有名で、その場所に風神を祀っていたと考えられています。それが、鎌倉時代初期、四条天皇の1238年に、二上山から現在地に遷座したとき、在地の恵比須神社が末社となった、とされています。

その、古くから現在地にあったという恵比須神社のご祭神は、神功皇后の両親とされる息長宿禰、葛城高額媛で、地元では当地付近を神功皇后降誕の地とする古伝承もあります。この太子町は古代から「科長(磯長)の里」と呼ばれ、息長(オキナガ)を音読みすると「シナガ」になるので、当社周辺を息長氏の支配地とする研究者もいるようで、古田氏は注目してよい説と好意的に紹介されていました。

 

拝殿

本殿

 

【社殿、境内】

かつては、鳥居前の手水に本殿裏より水が引かれ、八精(勢:ハセ)水と呼ばれていましたが、江戸時代には大和の当麻刀鍛冶国行(鎌倉後期の大和の刀工。大和五派のうち当麻派の祖)の同族国氏が鍛刀に用いた水だと伝えられています。

 

境内社の金平大明神

 

【所蔵神宝】

神功皇后のものという雛形兜があります。社伝では、皇后が三韓遠征のときに鍛冶職に命じて自らの兜の雛形として製作させたものとのこと。9センチほどの小さな美術工芸品です。

 

神社入口前に、遣隋使・小野妹子のお墓への石段入口があります

 

 

【磯長谷古墳群】

科長神社の西方一帯、東西約3キロ、南北約2.8キロにわたる広さの磯長谷に、古墳時代後期から飛鳥時代にかけての陵墓五基(敏達、用明、推古、孝徳、そして聖徳太子墓)を含む二十数基の古墳が点在しています。ここは別称として、エジプトの「王家の谷」になぞらえて、「王陵の谷」と呼ばれ、五つの陵墓が梅の花の形のように位置している事から、「梅鉢御陵」とも呼ばれてきました。古代の人々には、大和の飛鳥が「遠飛鳥(とおつあすか)」であり、この地域が「近飛鳥(ちかつあすか)」と認識されていたようで、この地域が重要だったことがわかります。

 

小野妹子の墳墓。小さな円墳のようです

 

「天皇陵の謎」で矢澤高太郎氏は、この地が大豪族蘇我氏の根拠地であり、往時の隆盛を物語るように蘇我氏系の天皇陵が点在する、と書かれています。しかし、この地に隣接する近つ飛鳥博物館の「展示ガイドブック」は、太子西山古墳(奥城古墳)の被葬者とされる敏達天皇やその母石姫が蘇我氏と血縁関係がないことから、必ずしも蘇我氏との関係のみで造営の背景を理解する事はできない、と説明しています。

その近つ飛鳥博物館は、春日向山古墳(用明天皇陵)や山田高塚古墳(推古天皇陵・竹田皇子墓)が、いずれも改葬されていることに注目します。これら以外に、推古紀に欽明天皇妃の堅塩媛(蘇我稲目の娘で用明・推古帝の母)が欽明陵へ改葬されている記事もあり、これが蘇我氏による堅塩媛の皇位継承の正統性の誇示であり、蘇我氏の基盤である磯長谷への二人の天皇の改葬も蘇我氏が大王家との結びつきを正当化し、勢力拡張を狙った政治戦略の意味合いが反映しているかもしれない、とまとめています。

 

二子塚古墳。7世紀後半の築造。手前北側の石室が開口してるので、シートがかけれらているよう

 

【山田高塚古墳(推古天皇陵・竹田皇子墓)】

磯長谷古墳群の王墓で、科長神社に最も近いのが山田高塚古墳です。59×554メートル四方の方墳で、三段築造です。磯長谷の南東部の尾根の先、谷を見下ろす良い位置に築かれていて、とても迫力がありました。ただ今見える形態は、文久の修陵で大掛かりな整備が行われたもので、その前後の姿が1867年に朝廷と幕府に献上された「文久山陵図」で確認できます。修陵前の゛荒蕪図゛では、方形の形態や段築の様子は判然としてなくて、もともとこの古墳が方形三段築造だったのか信じていいのかわからない、と「天皇陵の謎」で矢澤氏は感想を述べられていました。この「文久山陵図」、存在が明らかになったのは戦後の事で、考古学者にとっては衝撃的だったようですが、おかげで古墳の研究は大きく進んだようです。

 

山田高塚古墳

 

古墳の元々の築造形態については、1990年に行われた宮内庁による測量調査で、三段築造であったことが判明しています。その時、墳頂部南側に、3.5メートルの間隔をおいて東西に平行する花崗岩の石材が確認され、共に石室の天井石と考えられます。1855年の谷森善臣による「諸陵説」には、その東側石室についての観察状況が細かく記されていて、磨き上げられた家形石棺とみられる棺が二基左右に並べられていて、右が推古天皇、左が竹田皇子と明記までされているのです。ただ、西側にも石室が有り、矢澤氏は誰が眠っているのか皆目見当がつかない、と書かれています。

なお、磯長谷にある二子塚古墳や葉室塚(越前塚)古墳も、推古天皇陵の候補に挙げらています。

 

山田高塚古墳を東側から。西方向に斜面が下っています

 

【伝承】

出雲伝承を語る大元出版の「飛鳥文化と宗教争乱」に、当社や磯長谷古墳群に関わる伝承話が語られていて大変興味深く、そして更にいろんな思いが湧いてきます。そもそもこの「王陵の谷」の地は、推古大君が太后の頃に蘇我馬子から買い取った土地だといいます。そこに科長神社(祭神は蘇我臣石川)を建てて、゛記紀の蘇我゛氏の血を引く大君の陵を集めようとしたというのです。そうなると、上記した社伝の鎌倉時代遷座の話と全く合わなくなります。鎌倉時代の遷座の話がデタラメとも思いにくいし、となると古代に鎮座したのは恵比須神社なのでしょうか。どう理解して良いのか悩ましいです。

 

春日向山古墳。いわゆる用明天皇陵

 

出雲伝承の描く推古天皇の時代は、゛蘇我゛氏は有力だったけれども、政治の主導権や陵墓の改葬をコントロールしたのは推古大君だという説明になっています。でも、磯長谷に゛蘇我゛系を集めたとしながら、最初に埋葬したのが夫君の母・石姫だったというのはわかりにくいです。しかも、出雲式の方墳ばかり築かせたとしながら、その敏達天皇・石姫陵墓(太子西山古墳)は前方後円墳です。とりあえず最初は前例に倣って造ったということでしょうか。ただ、「古市古墳群をあるく」で久世仁士氏は、太子西山古墳の推定される築造時期は6世紀前半(オオド大君の今城塚古墳と同じ頃)であり、年代が合わないと考えられています。

 

春日向山古墳の墳丘を覗きましたが、結構小さいように見えます

 

一方、その後に大王家が息長氏系寄りになっていく話(息長足日広額天皇以降)は、かつて大和岩雄氏もそのような理解(゛息長系天皇を父母にもつ天智が蘇我氏を討つのは当然゛)を示されていて、心に留めておくのは有意義だと思っています。出雲伝承では推古大君の時代に息長連系の重臣が集まりだしているという記述があり、対して、科長神社の現在地にあった恵比須神社のご祭神が息長氏系夫婦神であったり、神功皇后の伝えが残る事などが関係するのかしら?、などと思いが巡ります。

 

近つ飛鳥博物館にある、磯長谷のジオラマ。一番上が科長神社。うっすら緑のライトは竹内街道

 

(参考文献:太子町公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 摂津」、矢澤高太郎「天皇陵の謎」、久世仁士「古市古墳群をあるく」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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