摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

浅草寺・浅草神社(台東区浅草)~土師氏と「寄り神信仰」がつながる東京の超観光名所

2022年12月17日 | 関東

 

東京観光の定番中の定番、東京観光の話題となれば大概テレビで映像が映るという超有名な社寺ですから、やっぱり足を運ばないとと参拝しました。神社を中心にしているのですが、タイトル的にはここはお寺を先にしないといけないでしょう。創建順序もそのようですので。存在は知っててもその創建経緯や信仰は存じ上げていなかったのですが、改めてご由緒を拝見すると、やはり古代を舞台にしたご由緒がとても興味深いお話だと思いました。

 

仲見世

 

【ご祭神・ご由緒】

ご祭神は、土師真中知命(ハジノマナカチノミコト)、檜前浜成命、檜前武成命。神社の掲示では、令和元年5月1日付けで、土師真中知命は「マツチ」から左記の読みに、檜前武成命は「竹」表記を「武」表記に統一したと説明されていました。従来ご由緒等における表記内容を踏まえ、且つ長い歴史の中での諸般の経緯を統合したとのことです。個人的には、有名な浅草寺を創建したのが土師氏とされる人だった事に感動しました。

まずは浅草寺の創建由緒です。推古天皇の三十六(628)年、春の朝、漁師の檜前浜成、武成の兄弟が浅草浦で漁をしていましたが、その日に限って一匹の魚も獲れなくて、網にかかるのは人の形をした像だけでした。彼らは観音像である事に気づかずに、いくどか像を海中に戻しましたが、網を入れる度にその像がかかるので、不思議に思い、持ち帰って土師真中知にいきさつを話したところ、聖観世音菩薩の像である事が分かりました。真中知は兄弟に、それは自分も帰依している功徳のある仏像だと教えます。檜前兄弟が自分たちは漁師だから大漁を得させたまえと願うと、翌日から大漁が続きました。これを見た土師真中知は仏門に入り、自宅を改めて寺とし、その観音像を安置したのが、浅草寺の始まりです。

 

宝蔵門

五重塔と宝蔵門

 

そして、真中知の没後、その子が観音の夢のお告げによって真中知、浜成、武成の三柱を祀ったのが、「三社様」「三社権現」とかつて呼ばれていた浅草神社の始まりとなりました。それにしても、土師氏に上記のような、どこかで伺ったことがあるようなご由緒譚がつながるのか・・・と、とても感銘を受けました。

もっとも、観音堂については「吾妻鏡」1180年に源頼朝が参詣して平家追討を祈願、田地を寄進したとあるものの、浅草神社の事は見えないので、神社の方の創建は鎌倉時代に降るともいわれており、かつての研究者・網野宥俊師氏も約700年ほど前の創建と推定している、と「日本の神々 関東」で金本勝三郎氏が紹介されています。

 

本堂。屋根が大きく重厚

浅草寺境内

 

【祭祀氏族】

真中知、浜成、武成の子孫三家は江戸時代まで専堂坊、斎頭坊、常音坊の三坊を代々世襲し、今日でも三家を観音の三譜代とよびます。土師氏は代々三社様の宮司を務め、檜熊氏の後も姓は浅井と変わりましたがなお観音と深い関係を保ち、三日に一度は堂に泊り、御戸開きはこの家の人の手でなければ行う事が出来ず、一族は二十四ケ寺のなかに属して浅草寺の収入の配当にも与っているそうです。

 

本堂向かって右に浅草神社が鎮座

 

上記でも触れたご祭神の一柱、土師真中知の読みについては、当社はかつて「マツチ」と読んでいましたが、それと共に「マナカチ」「マウチ」と読む説、「マツウチ」と読んで待乳山の「マツチ」に同じとしてこの小岡を真中知の居宅か墓のあった所とする説、また、真は「直(アタイ)」の誤りで土師直中知が正しく、武蔵国造土師直一族の人であろうとする説などが議論されてきました。現在も台東区が配布しているチラシ「ようこそ台東区へ 其の弐 浅草」における浅草神社の紹介文では、三つ目の説による「土師中知」と表記しています。それを、当社が令和に入って統一したというのが、上記の話でした。

明治五年に郷社に列し、翌年に「浅草神社」が正式名称になりました。

 

浅草神社、一の鳥居

 

【鎮座地、発掘遺跡】

浅草寺境内の名所に、伝法院の庭園(未公開)がありますが、その新書院前に古墳の石棺が一つあるそうです。凝灰岩で出来ており、長さ2.5メートル、幅1.2メートル、高さ0.75メートルで、神仏分離令の折に、本堂裏の熊谷稲荷社が廃止されて、その塚を崩した時に出土したのがこの石棺でした。そして、浅草が古墳末期時代にすでに沖積層デルタ地帯を形成し、東方の上野公園などを含む台地方面からの移住者がこの当時あったことが知られると、案内掲示で説明されていたようです。

このような巨岩はこの近辺では産出していないので、他地区から運ばれてきたと考えられています。かつての鳥居竜蔵博士が、昔、浅草寺には本堂前に「船の手水鉢」といってもう一つ石棺があったという事を本に書かれていた話も残っています。金本氏は、このような海岸に面した微高地に、小規模ながら古墳が存在した事は注目に値し、それはまさに浅草寺の創立につながるものだろうと述べられていました。

 

浅草神社境内と拝殿

 

古代の東京湾は、現在の墨田川下流域、墨田区・江東区・荒川区・台東区にかけての、いわゆる下町地区に深く入り込んでいたと推定されています。「江戸往古図説」では、゛武蔵野の末にて草もおのずから浅々しき故浅草と云しなるべしといへり゛と記されていて、その遠浅の海は土砂の堆積によって陸地となり、海岸に面した微高地には漁民の集落が点在するようになったと考えられています。

 

拝殿の装飾

 

【社殿、境内】

当社の社殿は1649年に三代将軍家光が寄進したものです。本殿、幣殿、拝殿を渡り廊下でつなぎ、総朱塗りで、長押には極彩色の漆塗文様、鴨居には鳳凰(狩野重信筆)が描かれて、権現造の代表的建築として三殿ともに重要文化財に指定されています。本殿は、なかなか周囲からはよく窺えませんでした。当社の社紋は、土師・檜前両氏の家門「三つ綱」と徳川家の家紋「葵」ということです。

 

本殿は十分拝見出来ません。こちらは背後より

 

【祭祀・神事】

当社の例祭、「三社祭」は、今は5月に行われます。神田明神(神田神社)の神田祭、山王権現(日枝神社)の山王祭とならんで、江戸の三代祭と呼ばれ、江戸っ子の心意気をもっともよく表すものとして知られています。1312年から船祭りの行事として始められましたが、江戸時代に浅草寺と一体化した祭になり、その頃から神輿をかついで氏子十八ケ町を廻っていました。今はないですが、蔵前、浅草橋方面からの山車も出て賑わったそうです。宮神輿は三基あり、それぞれ真中知、浜成、武成の神霊を移し、氏子各町を三方面に分かれ渡御します。

 

本殿を向かって左面から望む・・・装飾されてるのが分かりました

 

【伝承からの「寄り神」思案】

氷川神社の記事で触れましたように、武蔵国は古くから出雲の影響が色濃くあった地域だと理解されていて、また群馬県藤岡市には、土師(ドシ)神社があって土師氏の祖神である野見宿禰が祀られ、土師部の集団が居住していたと考えられている事などからすると、この浅草にも土師氏に関わる人々がいて古墳を造っていた事はあり得そうに思えます。ただ、土師氏にこのご由緒が結び付けられているのが面白いです。上記で゛どこかで聞いた事がある゛と書いたそのどこか、つまり兵庫県の西宮神社のご由緒を記載します。言うまでもなく、えびす様(出雲の事代主命)の神社です。

゛昔、成尾の浦(西宮の東方3キロ)の漁夫が、武庫の海で夜漁りをしていたとき、その網がいつもより重く感じられたので、悦び引き上げてみれば、魚ではなく奇しき神像のようなものがかかった。漁夫が何心なくつぶやきつつ、それを海中に遺棄し、なお沖遠く行くうちに、和田岬の辺にさしかかった。そこでもまた網を曳いていると、ふしぎや先ほどの武庫沖で見送った神像がまたかかったので、今度はただごとではないと勘付き、像を船に乗せて家に帰って斎き祀った゛

このご由緒について、「日本の神々 摂津」で落合重信氏は、これが寄り神的な考えを根底とする漁民(海士アマ)信仰の一つとして、海部の民の祀った神の話だと考えれらています。その話と浅草寺のご由緒は、像をいったん遺棄するところも含めて、おおむね同様なストーリーに見えます。

 

拝殿の後ろに鎮座する被官稲荷神社。ご祭神、倉稲魂神

 

【出雲軍の関東遠征】

東出雲王国伝承によると、最も初期の大和勢力は、出雲系氏族(登美氏。のち鴨、三輪氏)と丹波系氏族(アマ氏。のち海部、尾張氏)が連携していたと主張します。後に九州日向勢力が東征して、3世紀に出雲や大和は九州勢力の支配下になりますが、その新たな大和王は出雲の野見宿祢に追加の援軍を要請し、この出雲からの援軍が「相撲」を行って敵を撃退したり、また大和で古墳を造るなどの成果を挙げました。そしてその後、彼ら野見宿禰の後裔・土師氏道明寺天満宮のある土師の里などが拠点)を中心とした出雲軍に東方への攻撃命令が下され、これをきっかけに出雲族が関東方面に展開・定着するようになったと説明されます。

出雲伝承に馴染んだ目で、西宮神社や浅草寺・浅草神社の祭祀氏族やご由緒、ご祭神を見ると、出雲系(旧の出雲王国。出雲国造系ではない)と海部氏系の信仰が交じり合っている感じがして、こんなに超有名な寺社のご由緒に、出雲伝承の主張する初期大和勢力の両者の協力関係の痕跡が残っているように感じられてしまうのです。なお、出雲伝承は、アマや海部が5世紀からの職業集団でなく、弥生時代から活躍した丹波・丹後を本貫とする氏族と説明しているということで、「海部氏勘注系図」も引き合いに出しています。

 

東京スカイツリーが近いです

 

(参考文献:浅草神社、浅草寺公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、谷川健一編「日本の神々 関東」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、前田豊「徐福と日本神話の神々」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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