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(初回投稿'18-12-8より追記更新)
大阪、奈良においては、「庶民の霊山」として親しまれてきた生駒山。NHK-BSの紀行番組「新日本風土記」でも、番組テーマとして取り上げられるほど、地域の人々に深く信仰され、多くの物語を持つ重要な山です。
その番組では、山を信仰する多くの人々のエピソードに交えて、少し古代にも触れられていました。1800年前は生駒山の西の麓まで河内湖が迫っており、西から船で生駒山を目指して人々がやってきた。彼らは亡くなると山に埋葬され、その古墳が山に残っています。こうして、山自体が墓標として崇められていった、という説明がされていました。
生駒山は数えきれないほどの宗教施設が有り、現世信仰で有名な宝山寺が親しまれていますが、神社では何といっても生駒山の大阪側にある"いしきりさん"、石切劔箭神社が有名。祭神は、饒速日尊と可美真手命。一般に物部氏の始祖とされる神ですね。生駒山が物部氏の本拠地と言われる所以です。
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今回は、奈良県側、宝山寺の南に位置する往馬坐伊古麻都比古神社、(読み方:いこまにいますいこまつひこじんじゃ)通称、往馬大社(いこまたいしゃ)に参拝させていただいたので取り上げます。まずはご祭神です。
伊古麻都比古神(産土の大神)
伊古麻都比賣神(産土の大神)
気長足比賣命(神功皇后)
足仲津比古命(仲哀天皇)
譽田別命(応神天皇)
葛城高額姫命(神功皇后の母)
息長宿禰王(神功皇后の父)
堂々の7坐の祭神の本殿は、高床の春日造りですが、中央5坐が連棟形式っぽく、左右の2坐は少し高さが低くなっています。いずれにせよ、奈良県の天然記念物に指定されている鎮守の森共々、こじんまりした境内の中で重厚な雰囲気をだしていて素晴らしいです。並みの神社ではないと感じます。
掲示のご由緒では、往馬大社は本来、生駒山をご神体として祀られた古社、としています。神社で最も古い記録は「総国風土記」の雄略3年(468年)。また正倉院文章にも記載が見られ、奈良時代から既に朝廷との関りがありました。平安時代の「延喜式」では官幣大社に列せられ、その内一座は祈雨の幣も賜っていました。
当初、神社の祭神は比古・比賣神の2柱で、山から流出する水の恩恵を受ける人々の自然崇拝に始まったものと考えられ、比古神、比売神を祀る類の神社は、豊穣を祈る農業神であると言われています。往馬大社は古くから「火の神」としても崇敬厚く、歴代天皇の大嘗祭に関わる火きり木を当社より納めた歴史が有り、昭和や平成の大嘗祭の「斎田點定の儀」にもご神木の上溝桜が使用されました。
多くの神社同様、本地垂迹思想の影響を受けて当社も中世には急速仏教化していき、宮寺は十一ケ寺あったそうです。本来の祭祀の意味は忘れられ、祭神は二神から七神に増加します。その時期や理由は分かっていませんが、現在奈良国立博物館が所蔵する鎌倉時代の生駒曼荼羅図(神社が保管するものは室町時代作)には、既に7座が描かれています。これら曼荼羅図には、奈良国立博物館の「垂迹美術」によると、祭神それぞれの本地仏が描かれています。
伊古麻都比古神・・・薬師如来
伊古麻都比賣神・・・毘沙門天
気長足比賣命・・・十一面観音
足仲津比古命・・・釈迦如来
譽田別命・・・阿弥陀如来
葛城高額姫命・・・文殊菩薩
息長宿禰王・・・地蔵観音
しかも最初の2神の社は右側の低い場所に小さく描かれていて、既に主客転倒していました。さらにこの図の上方には、生駒山上からはるか西の海上に白帆が浮かび、海辺に社殿と鳥居が立っています。つまり、住吉大社が描かれているのです。一方、その住吉大社の、平安時代成立とされる「住吉神大記」所蔵の「胆駒神奈備山本記」には、現生駒山とその山麓一帯の地は、住吉の大神の本誓により垂仁天皇と仲哀天皇が大神に寄進したもの、だと書かれています。伝承とはいえ、生駒山と住吉大社の密接な関係が窺えます。
淀川にそそぐ枚方市の天野川は、生駒山地の水の北への流出路ですが、その川沿いには住吉神を祀る社が連綿と続いています。これは、生駒山東麓を北上し、天野川沿いに磐船峠を下って淀川に出、難波津に至る重要な交通路であり、そこに航海神の住吉社が祀られているのです。「胆駒神奈備山本記」の話は、こうした社会的事象が反映して成立したと考えられないか、と谷川健一氏編「日本の神々大和」で比嘉紀美枝氏が推論されています。
磐船峠越えが大和から淀川へ出るルートとして開かれてすぐ、住吉信仰がこれに沿って入り込み、当社もその隆盛に押されてしまった。そして航海神である住吉神が、中世の武士の台頭によって、軍神である八幡神へと変貌していったが、当初の二神はわずかにその形跡をとどめながら信仰されつづけて来たのだろう、と比嘉氏はまとめられています。
(参考文献:神社ご由緒、谷川健一氏編「日本の神々 大和」)
それにしても産土神の伊古麻都比古神で、朝廷、天皇家とも関わる、という説明は分かりにくいですね。或いは、宮崎県の゛生目゛から生駒山に゛入って゛来た若者、となると、どうでしょうか。
東出雲伝承の主張では、この神は、伊久米(イクメ)入彦伊佐知命、だといいます。この御方が、日向王国を治めていた父、印恵(イニエ)王の意思を継ぎ、大和に東征して来たというのです。現大分県の豊国と共同での侵攻でした。そして、大和に攻め込む直前、当時の大和を支配していた、登美~賀茂氏をはじめとする出雲系を中心とした日本海系氏族の抵抗にあい、一時休戦、駐屯した山が、イクメ王にちなんだ名前が付けられた、生駒山だと書いています。
この時代の話が、不完全な形で「魏志倭人伝」に記載されたといいます。また、イクメ王の名が2カ所で出ています。まず、”官に伊支馬有り”。これが日向王国にいた時の事か、大和に移った後かで、出雲伝承内でも異なる記載があります。そして、243年、"伊聲耆"として、帯方郡まで行った事も記載されています。言われてみれば、なのかもしれませんが、和風諡号名からすると、疑っても良いかもしれませんね。
・左が生駒山。右の森が往馬大社の鎮守の森
この故事にちなんで、生駒山に饒速日尊が天降った喩え話が作られたと言います。つまりイニエ王、イクメ王は饒速日尊を祖先とする王でした。そしてイクメ王の東征は氏族として2回目のものだったと云います。戦乱を治めた後、布留山で政務をとりました。
もう一人の主要祭神、伊古麻都比賣神は、休戦協定でイクメ王の后となった大和側、登美氏出身のサホ姫の事のように思われます。伝承の主張する史実を前提とすると、記紀の悲劇の物語がなぜそんな話になっているのかが理解しやすいです。なお、サホ姫は焼け死んではなく、出雲古伝では、出雲~九州へ逃れて行った話と、もう一つは尾張~丹後~伊勢と渡り歩いた、つまり”ヤマト姫”である話とが載っています。出雲伝承も複数あるという事なのでしょう。
(「御伽話とモデル」「古事記の編集室」「親魏倭王の都」)
やはり気になるのは、「住吉神大記」の「胆駒神奈備山本記」の話。仲哀天皇は祭神であり八幡神の父上なので良いのですが、なぜここに垂仁天皇の名が出ていたのか、です。「住吉神大記」といえば、”神功皇后が住吉神と夫婦の秘事をした”、との記述も有名ですね。邪推ですが、住吉大社を創建した難波王朝が、「イクメ王からの王朝」に取って代わった事を暗にほのめかした?、とかいろいろ想像すると楽しいです。