摂津三島の式内社です。高槻市の隣でもある吹田市にこの名を冠する神社が二社存在し、ともに式内論社とされています。今回は二社で併記したりして、それぞれの伊射奈岐神と伊射奈美神を一緒に取り上げます。
・(佐井寺社)一の鳥居。とても急です・・・ 👆見出し写真は(山田東社)の一の鳥居
【ご祭神・ご由緒】
(山田東社)
神社の説明では、伊射奈実命が主祭神です。相殿に天児屋根命、手力雄命、天忍熊根命、そして蛭子命を祀るとされています。なお、「式内社調査報告」、「角川日本地名大辞典」「日本歴史地名大系 」では、相殿のご祭神に天照大神が入っています。また、ここに伊射奈岐命がお祀りされてないのは、以下ご由緒によります。「式内社調査報告」の説明をベースにしています。
「延喜式内伊斜奈岐神社臺帳」によると、雄略天皇の御世に倭姫宮の示教により岡本豊足彦が二神を奉持して摂津国島上郡岡本邑に斎祀りましたが兵火で消失しました。そこで同島下郡山田原に奉還し姫宮と称しました。姫宮というのは同時に佐井原に伊斜奈岐を祀るからです。その後、852年に小川谷より現在の高庭山に遷し、五社の宮と改称した、という経緯です。以上のご由緒から、本来は、現在の相殿五神を祀っていて後に、伊斜奈美神を合祀したと思われる、と「角川日本地名大辞典」では述べられれていました。
一方、神社のご由緒説明では、倭姫宮の示教によ大佐々之命が五柱を、ついにこの山田の地に奉祀せられた、となっています。
・(山田東社)参道
・(山田東社)境内
(佐井寺社)
伊射奈岐命、素戔嗚尊、八幡大神。こちらでは、伊射奈美命はお祀りされていません。
「神社明細帳」によると、以下の通りです。”雄略天皇二十二年九月、豊受大神が丹波国与謝郡真那井の原から伊勢国山田の原へご遷座の際、倭姫命の御教により摂津国三島郷山田の原へ斎祀る伊斜奈岐神社二座で、その一座は今山田小川で、一座は本宮である”。佐井寺は別名山田寺とも呼ばれ、735年行基の開基と伝えられ、伊勢国山田ノ原の名を移したのでこの地を山田と呼んだ、との伝えもあります。なお、「佐井」は、元来「さ」が井の美称であり、霊泉や井の有るところが地名化したものと考えられると、「式内社調査報告」で生澤英太郎氏が書かれています。
・(佐井寺社)境内
【神階・幣帛等】
「三代実録」の貞観元年(859年)に、当地の伊斜奈岐神社が従五位下から従五位上に昇叙されたことが載りますが、これは佐井寺の社のことだとされています。そして、「延喜式」神名帳には、゛伊斜奈岐神社二座。大社、月次、新嘗゛、とありますが、これは山田東社と佐井寺社の二社に当てる考え方があるようです(「五畿内志」)
上記の神階昇叙記事について、伴信友の「神名帳考証」では、貞観元年にいざなぎ神のみ加階されるのは、当時はいざなぎ神一神のみであったのを、(その後の)延喜の時より以前にいざなみ神も祀られた為だ、とい考えが提示されています。ただし、明確ことはわからないというのが実情のようです。
・(山田東社)拝殿
・(佐井寺社)拝殿
【中世以降歴史】
(山田東社)
1636年に工事を起こし、1639年に落成。正遷宮の式典を行い、3か月間も村中で休業してまつったようです。これが現在の社殿です。淀の城主、稲葉丹後守殿御祈願所でもありました。明治3年に「五社」から今の神名に改められ、明治6年に郷社になっています。
(佐井寺社)
「千里村誌」(1932年)によると、応仁以来、たびたび兵火にあい、祠廟一時衰退しましたが、文禄三年(1594年)、草社を営み、享和三年(1803年)新たに社殿を造営しています。「摂津誌」の記述からは、江戸時代には゛今春日と称す゛とあり春日社と呼ばれていたことがわかりますが、「摂陽群談」によると、当時は牛頭天王社として゛佐井寺村山田寺鎮守にあり、所祭三座春日・八幡、相殿也゛とあるのは当社の事と考えられています。明治5年に、村社になっています。
・(山田東社)摂末社。天満宮、八幡宮、八王子社、祓戸大神
【社殿、境内】
(山田東社)
本殿は境内からは奥まっていてほとんど拝見出来ませんが、建築様式から17世紀末頃の建築と考えられています。大阪では珍しい五間社流造で、間の間隔が端から中央にいくに従い広くなっていて、安定感を増し中央を強調していると考えられます。装飾性の高い彫刻は高く評価されているようです。
・(山田東社)本殿。屋根しか拝見出来ませんでした
(佐井寺社)
拝殿・本殿共に、詳しい事は分かりませんが、近年再築されたコンクリート造りの社殿です。本殿は幣殿の屋根がつながった寄棟造に見えます。
・(佐井寺社)本殿
【伝承】
東出雲王国伝承では、イザナギ・イザナミ神の二神は、そもそも出雲王国のサイノカミ(幸《塞。佐井?》の神。岐の神や八衢姫神ら親子三神)信仰のうちの夫婦神の名前を変えたものであり、この名前で初めて祀られたのが松江市の神魂神社だと説明されています。雄略天皇の頃は、イザナギ・イザナミ神の呼称になってたと理解します。そして今も、松江市の武内神社では、(リンク先の写真のとおり)幸の神の名の石像が祀られています。
ご由緒による創祇譚は、雄略天皇の時代の丹波(丹後)の与謝宮から伊勢への豊受大神の遷座、外宮創祇に関わるようなのですが、何とも錯乱したお話で、イザナギ・イザナミ神が個別に祀られた経緯や五柱とのご関係がことごとく曖昧な話になっていて、「よく分からない」です。ちなみに高槻市の岡本町(かつての岡本村)には、白山(はくさん)神社というほぼ同じご由緒で伊邪那美命を祀る小社が今も鎮座しますが、火事に遭った話は見られず、吹田市の伊射奈岐神社と関係する説明も見当たりません。さらに気になったのが、山田東社では神社ご説明のご祭神が、文献史料(発行は「調査報告」1977年、「地名大辞典」1983年、「地名大系」1986年)と違って、それも天照大神が消えている事です。何らかのお考えで、最近変更されたと想像するしかありません。
・(山田東社)2018年の大阪北部地震で被災した鳥居が参道横に移築されています
【ご由緒にある与謝郡比治真名井】
山田東社のご由緒説明では、豊受大神の元鎮座地である与謝郡比治真名井を福知山市だと付記していて、福知山市の豊受大神社を想定されているようです。「日本の神々 山陰」で山路興造氏は、この豊受大神社のある天田内は加佐郡であり、古く与謝郡であったという確証はない、と説明されています。ただ、伊勢外宮への遷座の途中でしばらく鎮座したという話があるようです。当社の信仰ですので基本了解しておきたいと思いますが、個人的には外宮の元鎮座地は海部氏の元伊勢 籠神社にある真名井神社説を推しています。大和岩雄氏ら研究者も、伊勢神宮の信仰に海部氏の関係を考えられてる事もあります。なので、このご由緒説明は、当社の信仰によるこだわりを感じます。
・(佐井寺社)伊勢神宮方向の遥拝所
(参考文献:伊射奈岐神社(山田東)公式HP、神社掲示説明、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、「角川日本地名大辞典」、「日本歴史地名大系 」、「式内社調査報告」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、谷川健一編「日本の神々 山陰」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)