阿久刀神社1の続きです。前回は、「延喜式内社調査報告」など辞典的な資料を中心に由緒等をまとめました。今回は、高槻市による当社周辺地域の弥生~古墳時代に係る発掘成果より得られる時代変遷の話から始めたいと思います。
【神社周辺地域の弥生~古墳時代の発掘状況】
弥生時代初期は、高槻市八町畷の安満遺跡と茨木市の東奈良遺跡の2トップの環濠集落が特筆します。東奈良遺跡は古式の銅鐸や銅鐸鋳型が出た事で有名な地ですが、弥生前期の後半には極端に巨大化します。これは、弥生時代前期の2つの移住の波の第二波(第一波は稲作技術の伝来の波)といえる、さらなる渡来人の集団移動による青銅器を始めとした技術・情報が伝来した波の中での動きでした。ここでは、様々な集団がさみだれ式に、地域の実情に合わせて受け入れられていき、東奈良ムラの場合は銅鐸作りを中心とする新来の青銅器技術者集団を受け入れたためだと考えられると、今城塚古代歴史館の現在の特別館長、森田克行氏は説明されています。
・一の鳥居
中期前半(BC.200年頃)には阿久刀神社のある郡家川西遺跡にも濠が掘削され、低丘陵地では天神山遺跡(上宮天満宮附近)で集落が拓かれます。天神山では銅鐸が一点出土してますが、江戸時代にも出土した記録(ロサンゼルス美術館蔵)があり、有力なムラだったと考えられます。一方、淀川縁の低湿地帯にも集落が成立。その内の芝生遺跡では北陸産のアメリカ式石鏃が出土しています。その後の後期初頭、安満遺跡が一時解体し、高所の古曽部・芝谷遺跡への移住が起ります。この遺跡は鉄器が豊富だったり、高所集落である事や墓壙の埋葬形式などが丹後地方と似ており、゛丹後の人が高槻に来て葬られている゛との指摘もあります。弥生時代後半には郡家川西が富田台地の安定した生産基盤により急速に拡大します。
・本殿
古墳時代に入ると、その郡家川西に芥川から引水したと考えられる灌漑用水路が開削され、大規模な集落となっていきます。この開発に直接かかわった首長の墓群がこの地の西北にある弁天山古墳群であり、後の三島県主に繋がる地元豪族と考えられています。彼らが富田台地の西側より開発を進める一方で、5世紀前半、台地の東側で大和王権主導と考えられる灌漑用水「三島大溝」が茨木市の安威川から引水する形で掘削され、その中央主導の開発の象徴として太田茶臼山古墳が築造されます。さらに6世紀に、三島県主の墓域を強制的に接収するかのような形で今城塚古墳が築かれるのです。それでもこの一族は奈良・平安時代まで、嶋上郡の郡領として、丁度郡家川西遺跡の地にあった嶋上郡衙を差配していく事になります。
・摂末社、前回からの続きです。小島神社(市杵島姫命)
【神社の中世以降歴史】
阿久刀神社の本殿は、永禄年間(1558~1570年)に三好、松永の兵火に掛かり焼失してその後再建されたものですが、いつ築造かは分かりません。昭和7年に屋根替があり正遷宮が行われていますが、鎮座地の移動については記録にないようです。多数の摂末社は、明治維新後に各所より境内に遷されたものです。なお、芥川の名は、当社名が訛ってついたと考えられています。
・稲荷神社
【阿久斗姫を語らない伝承】
東出雲伝承では、初代から三代の大王に嫁いだお后を「日本書紀」の名で呼び、東出雲王国富(向)氏の分家 登美氏の姫だと繰り返し云います。ただ、五十鈴依姫については「古事記」の川(河)俣姫の名を併記するものの、淳名底仲姫については一切併記がありません。「古事記」は、川俣姫が師木(磯城)県主の祖先で、阿久斗比売が川俣姫の兄の県主波延の娘だと書いています。東出雲伝承は、登美氏はその後磯城県主になったと云ってるので、県主波延を始祖の天日方奇日方(櫛御方命)に読み替えれば、関係性はぴったし合うのです。
・井内五社(天照大神、天児屋根命、素戔嗚命、八幡大神、仁徳天皇)
高槻市民として、第三代皇后の名を冠した神社だとの、伝承の裏付けが欲しいところですが、何かそう書けない訳があるのか、ただ略しただけなのでしょうか・・・そして、そもそも阿久刀神社は誰を祀り始めた神社なのか。また、三島県主はどんな氏族なのか、上記に記載した話では分かりにくいのです。ここは、せっかく地元の神社を話題にしているので、願望も込めて、東出雲伝承の云う出雲人の三島~大和移住を高槻市の発掘成果等と繋いだストーリーを作ってみたいと思います。
・大将軍社(武甕槌命)
【出雲人の移住した゛登美の里゛】
まず、紀元前3世紀終盤に、東出雲王国から三島溝咋姫と共に摂津三島に移住したという御子の天奇日方(櫛御方命、登美氏始祖)、踏鞴五十鈴姫、五十鈴依姫の兄弟は、どこに来たのでしょうか。どう考えても三島溝咋耳の拠点と想像される東奈良ムラを目指したのでしょう。ただ、大勢の出雲人がやって来て高槻市から京都府の向日市にかけてが富氏の領土のようになったらしいので、東奈良の拡大期も終盤だった事もあり、分散していったのでしょう。さらに、奇日方達の住んだ所に「登美の里」の地名が付いたと云います。これは現在の登美の里町ではなく、上宮天満宮の云う、この神社の南、上田部町~下田部町の古代嶋上郡濃味(元々、登美)の里を想定したいです。天満宮のある辺りが天神山遺跡で、拓かれた時期も合うような・・・後には東出雲王国から来た野見(富)宿祢の子孫、土師氏の古墳(式内の方の野見神社)も築造されてます。この地が現在JR高槻駅のある中心地になっている事は、とても由緒が有るように想像します。
【三島県主】
次に、三島県主についてです。「県主飯粒」のイイボから茨木市の新屋坐天照御魂神社西河原社の摂社だった磯良疣水神社や、播磨の粒坐天照神社との関連が語られ、これら神社が天火明命を祖とするアマ~海部(尾張)氏により祀られた事を見ると、丹波・丹後の海部氏系の人に見えます。紀元前後頃に古曽部・芝谷に来た丹後の人達(おそらく天香語山の子孫)が気になります。ただ、東出雲伝承は、出雲人移住前から三島家の溝咋耳がこの地一帯を領有しており、そこに出雲人が紀元前に優越的な立場で入ったと言っています。三島県主の古墳とされる弁天山古墳群は、岡本山など山上にある前方後円墳です。これを見ると、登美氏の本家富氏の子孫である大和土師氏の古墳築造技術と丹後海部氏の高所墳墓の習慣がミックスしているようで、三つの氏族が絡むように感じます。それ以上はわかりませんね。
・芥川堤防より。右手に見える家屋の向こうが岡本山古墳のある山
【そもそものご祭神は?】
そして、阿久刀神社のご祭神です。この神社のある郡家川西の地が本格的に発展するのは弥生時代中期前半で、出雲人が入った後です。天神山と郡家川西の間は古代白髪~真髪郷にあたり、登美氏の後継となる賀茂氏とも縁の深い地域です。後に奇日方達が大和に移動しその地でアマ氏と連合政権をつくり、そこで奇日方の娘、淳名底仲姫が玉手見王の后になり出雲血統の濃い王朝になったと云います。この事を記念して、郡家川西ムラの地に淳名底仲姫が祀られたと考えてみたいです。アマ氏系も了解したでしょう。
・神社入口に植えられる夫婦梅。一花の中に2本の雄しべがあり2個が実を結ぶ珍種。夫婦円満、良縁成就の御利益があるそう
【渡来人と出雲系の受難】
古墳時代になり、5世紀前半から大和王権が「三島大溝」の開発を始めた時、太田茶臼山古墳の記事で触れた事も含め、多くの朝鮮渡来系の人々がやって来ただろうことが推測されます。その人たちが芥川沿いの土地に住みついて、さらに機織部などの役職を与えられていきます。ここで気になるのが、葛城の高鴨神ないし一言主神(そもそも東出雲王国の事代主命)が雄略天皇により土佐に流される不思議な話です。また、赤大路の鴨神社の伝承では、4世紀中頃に葛城鴨氏が大和朝廷により滅亡した、とも言っています。登美氏の後継となる鴨(賀茂)氏に何らかの受難があり、葛城氏の滅亡と共に政治的な力が弱まったのでしょうか。そんな中で、渡来人が勢力を増す大きな流れがあって、郡家川西ムラに祀られた社の名が、1の記事で書いた朝鮮渡来系のアクトに変えられていったのでは、と勘繰りたいです。だから出雲伝承は阿久斗姫の名を書きたくないのでは・・・。
・芥川から高槻市の山々を望む
江戸時代に、こちらも東出雲王国の御子、建御名方富命(わざわざ富の付いた方の名前で呼んでます)がご祭神であるとの話が出たのは、出雲系の神社であるとの根強い伝承がそう言わせたような気がしてきます。ただ、現在のご祭神住吉三神も、海部氏もかかわった地域の神社だったので、十分に古代信仰を反映しているとは言えるのではないでしょうか。
【゛富田゛のこと】
蛇足ですが、最近のNHKの番組「日本人のおなまえっ!」で、”富田”姓の起源が建御名方富命の”富”から来ているとの説が紹介されていた事を付記しておきます。高槻市の登美の里町の近くの富田(読みはトンダ)町や富田台地の地名も同じだろうことは、出雲伝承に馴染んだ者としては自然に考える事で、NHK様よくぞ言ってくれました、という気持ちです。以上、知り得ている要素の諸々をつなぎ合わせてみただけではありますが、今後も考え続けていきたいと思っています。
(参考文献:「式内社調査報告 第五巻」、今城古代歴史館図録:「三島弥生文化の黎明」「淀川中流域の弥生文化」「太田茶臼山古墳の時代」、谷川健一編「日本の神々 摂津/山城」)