摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

沙沙貴神社(ささきじんじゃ:近江八幡市安土町)~出雲守護になった近江源氏佐々木氏

2022年07月09日 | 滋賀・近江

 

一の鳥居から楼門までの参道周囲に茂る社叢がとてもきれいで雰囲気が有り、年間を通じて様々な花が楽しめると滋賀・びわ湖観光情報HPでも紹介されている、見ごたえのある神社です。参拝した時はウコン桜と八重桜が見頃で、御朱印はそのウコン桜のスタンプ付バージョン(初穂料も少し上がりますが)を頂けました。5月には、「なんじゃもんじゃ」とのユニークな通称を持つヒトツバタゴが白い花を咲かせ、異彩を放つようです。新しい見どころも多く、境内にはBGMが流れてたり武士のコスプレをした方が待機してたりで、積極的に信仰をPRされている印象です。

 

・入口の一の鳥居。見出し写真は、楼門です

・駐車場と楼門の間にある、なんじゃもんじゃのシンボル樹

 

 

【ご祭神・ご由緒】

ご祭神として、少彦名神、大毘古神、仁徳天皇、そして宇多天皇及び敦實親王らの、四座五柱の神々が「佐佐木大明神」として本殿にお祀りされています。神社名のササキについては、古くから、ご祭神仁徳天皇の和風諡号である「大鷦鷯(オオサザキ)」から来たとする説、ご祭神少彦名神が「鷦鷯の羽」の着物を着ていた事から来たとか、ササゲの豆の鞘に乗って海を渡ってこられたからなどが有りますが、今は蒲生郡の古代豪族狭狭城(沙沙貴)山君から来たとする説が定説です。ササキの表記は「佐々木」も広く使われますが、これは狭狭城山君氏のあとを受けて中世に近江源氏佐々木氏が当社を氏神としたことによるようです。

 

・楼門正面の社叢

・境内

 

【祭祀氏族・神階・幣帛等】

狭狭城氏については、「日本書紀」孝元天皇条に、゛大彦命は是阿部臣、膳臣、阿閉臣、沙沙貴山君、筑紫国造、越国造、伊賀臣、凡て七族の始祖なり゛と有ります。雄略天皇条では、市辺押磐皇子の殺害に協力した人物として「沙沙貴山君韓帒」が見え、顕宗天皇の時期にその罰として韓帒を陵守兼山守に落とし、管籍から外して山部連に従属された等が記されますが、ここから韓帒が元々山君として山守部を管掌していたと推測する見方も有ります。「延喜式」神名帳には、蒲生郡の小社として、「沙沙貴神社」として記載されています。

 

・拝殿

・幣殿と社殿

 

【中世以降歴史】

当社が宇多天皇と敦實親王を併祇しているのは、近江源氏が宇多天皇・敦實親王の末裔である事からきていますが、「吾妻鏡」では、狭狭城氏後裔としての「本」佐々木氏である佐々木成綱と、佐々木庄の総管領である近江源氏系の佐々木定綱とは一族ではないと書かれているようです。一方、「尊卑分脈」では両者とも佐々木経方から分かれた事になっています。これについては、系図上の一致は鎌倉時代に勢力を伸ばした近江源氏系の佐々木氏の操作によるもので、おそらく、宇多天皇と敦實親王が当社の祭神に加えられたのは、両ササキ氏を合わせた系図が作られたのと同時期だろうと、「日本の神々 近江」で柴野康之氏が書かれています。

 

・五間社流造の本殿。奥行きは二間が身舎で、前一間は柱が四角で外陣

 

近江源氏系の佐々木氏は当社の鎮座する佐々木庄を中心に勢力を張り、近江国守護としてその地位を確固たるものにし、それは鎌倉中期に一族が六角、京極など数家に分かれた後も変わりませんでした。一方、狭狭城山君氏を祖とする佐々木氏の一部は、多くは当社や近隣の神社の神官を務めたそうです。当社は江戸時代になると丸亀藩主京極氏の庇護をうけ、今も近江源氏の末裔と称する全国の人々の連絡所となっています。境内にはその一族のひとり乃木将軍夫妻が、権殿の゛東の座゛に祀られています。乃木将軍は明治39年に当社を参拝され、その時に植えられた松と安土小学校に立ち寄った際に語った言葉を刻んだ石碑が、権殿前にあります。

 

・乃木大将御手植の松

・乃木将軍夫妻らを祀る権殿

 

【社殿、境内】

平安・鎌倉様式を持ち江戸中期に再建された葭(よし)葺きの楼門や、四国丸亀藩主京極家によって1848年に建築された本殿、権殿、拝殿など見ごたえある木造建築八棟はすべて県指定有形文化財に指定されています。本殿は年代が新しい分、装飾が豪華な感じで、横や背面の全ての蟇股には草花と思しき細かい彫刻が配されており、他の神社でこれまで見た事がなかったので驚きました。

 

・境内社。奥から、少童社、影友稲荷社、賀茂御祖・賀茂別雷社、愛宕社、祇園社

 

【鎮座地、比定、発掘遺跡】

近くには、佐々木六角氏の観音寺城や常楽寺古墳群があり、東北東1キロ程度には近江で最古期、最大となる全長162メートルの前方後円墳・瓢箪山古墳も存在します。さらに、境内の北側に接する四ノ坪遺跡からは、4世紀初期から中期にかけての住居跡とみられる遺跡群が発掘されてます。これらは沙沙貴山君氏や当社の始まりと関りがある遺跡だと考えられています。

 

・特に少彦名神と天之羅摩船を祀るという「磐境」

 

【伝承】

東出雲王国伝承を語る「出雲と蘇我王国」で斉木雲州氏は、佐々木(沙沙貴山君)氏は出雲王の系譜を持つ、古い家柄だと書かれています。出雲伝承によると、初期大和勢力の王の系譜は、東出雲王家・富氏の大和での分家である登美氏の血筋を持ち、その大和王の系譜から出た大彦命(大毘古神)が沙沙貴山君の先祖だからです。松江や美保を中心とした東出雲王国の王だったという八重波津身の事をさす少彦名神が、筆頭に祀られているのはその為でしょう。なお、大彦命がこの地にいた理由は、御上神社勝部神社などの記事で触れました。

 

・伊勢神宮の式年遷宮で撤去され特別下附された材料で作られた「八角神殿」

 

上記の書では、近江国守護職の佐々木氏と神社社家の佐々木氏に婚姻関係が生じて、両者が親族になったと書かれています。そして、後の近江源氏の佐々木義清が、出雲・隠岐の守護に任じられました。「子孫は先祖の地に引かれる」と言う言葉を引き合いに、出雲の守護になる事を佐々木氏が望んだと、斉木氏は述べています。また、近江源氏から分かれた京極家も出雲の守護でしたが、その高久は犬上郡の尼子に住んだので、尼子氏と称します。尼子氏の入った富田城の名は、旧出雲王家の富氏にちなんだらしいです。

 

・本殿裏にある「干支の庭」。かわいらしい干支の石像が並びます

 

(参考文献:沙沙貴神社公式HP、滋賀・びわ湖観光情報HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 近江」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、佐伯有清「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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