その親しみやすくインパクトの強い神社名からか、葛城地域でも最も参詣者の多い神社の一つと言われる葛城一言主神社。「古事記」に載る、゛吾は悪事も一言、善事も一言、言ひ離つ神、葛城の一言主大神ぞ゛というお言葉から、どの様な願い事でも一言の願いならばかなえてくれると信じられている事も人気の要因でしょう。地元でも「いちごんじんさん」と呼ばれ敬愛されているそうです。
・鳥居のすぐ脇の蜘蛛塚。葛城の土蜘蛛を捕らえ、埋めた跡とされるもの。神社の背後が現在の葛城山です
「延喜式」神名帳では゛葛城坐一言主神社゛と表記されます。ご祭神は、「大和志料」にも記載されるように、一言主神に雄略天皇を配祇するとされます。社名から見ても本来は一言主一座だったと考えられますが、「神社明細帳」には事代主命と幼武尊(雄略天皇)と書かれているようです。神階は、「文徳実録」では850年に正三位、「三代実録」では859年に従二位と高い神階を誇りましたが、神戸の施入の記事はなく、託宣の神としてでなく、風雨祈願の神とされているのが注目される、と谷川健一編「日本の神々 大和」で木村芳一氏が書かれています。
・神社名の石標。この日も暑かったです
一言主神は、「"和"の五王」時代の天皇と拮抗した葛城氏の祀った神だろうと考えられていて、記紀両方に特に雄略天皇との関係を想起させる二種類の話がありますが、微妙に内容が違います。長くなりすぎないよう要旨だけ書きます。
・登り階段は少しこんもりしています
「古事記」
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雄略天皇が大猪に襲われ、恐れて木の上に逃れ、(それを見た 舎人が)歌を詠んだ。
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雄略天皇一行と一言主神の一行が遭遇。天皇は誰かわからず、強い口調で問う。そこで「一言主大神ぞ」と答えがあり、天皇はおそれかしこんで武具を献上。神は天皇を長谷山口に送る。
「日本書紀」 -
雄略天皇一行と一言主神の一行が遭遇。天皇は神と知っていたが名を尋ね、お互い名乗り合う。そして、獲物を譲り合いながら狩りを楽しむ。神は天皇を高取川に送る。
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雄略天皇が瞋猪に襲われ、舎人に迎え射るように命じたが、舎人が木に登って逃げた。そして天皇自身が刺し止め殺した。天皇が舎人を殺そうとしたき舎人が1と同じ歌を詠んだ。皇后に諭され、舎人を殺すのをやめた。
・拝殿
「謎の古代豪族葛城氏」で平林章仁氏は、葛城の式内名神大社の中で多くの問題を抱えているのがこの神社であり、神と天皇が対立したり、親和的であったりと相反する物語があったり、また別で、一言主大神が土佐国に流されたと取れる所伝もあったりで、混乱が倍化する、と述べられています。その平林氏は、上記の1,4は天皇に対して葛城氏が強い抵抗を示していると解され、葛城氏の立場からの話であり、一方2,3は親和的なので天皇側の所伝だろうと考えられています。
・本殿は奥に高い位置にあり、よく見えません。かろうじて千木と鰹木がうかがえました
一方、木村氏は、2と3について、2が古い話で、天皇たりとも葛城の神には対等以上の敬意を表さなければならなかった時期を表現ており、対して3は対等に近く、親密な婚姻関係を失った雄略以降の政治情勢を反映して改作されたもの、と解釈されていました。その後も、「日本霊異記」によれば、一言主神が役行者によって呪縛された話があり、平安時代以降は衰微していったと思われます。
・この神社が著作権を持つという、十のボケ除け数えうたを掲示。カボチャが良いそうです
境内には、俳人芭蕉の句碑がある事も有名です。
゛猶みたし花に明行神の顔゛
一言主神は役行者を助けて葛城山と吉野金峯山との間に橋をかけようとしたが、昼は働かず夜だけ働いた。それは顔が醜いためだったという。しかし本当は、この花盛りの山の曙にふさわしく、きっと美しいに違いない。そんな神のお顔を見たいものだ・・・と、木村氏が上記の書で解釈されています。
(谷川健一編「日本の神々 大和」、平林章仁氏「謎の古代豪族葛城氏」)
・摂末社。奥より一言稲荷神社、市杵島社、天満社、住吉社、八幡社。
境内にはまた、葛城襲津彦の頼もしさを詠み込んだ万葉集の一句の、こちらもなかなか力の入った立派な碑があります。万葉集の時代になっても、襲津彦がいかに尊敬されていたかを訴えているようです。東出雲王国伝承では、記紀は葛城襲津彦と大鷦鷯大王の系譜を曖昧にした、と主張しています。実際の゛功績゛からすれば襲津彦が大王にふさわしいのに、大鷦鷯命が大王となり、葛城氏側は不満をもっていたよう。たびたび反乱を起こし、記紀ではそれがたとえ話にされたと云います。(「出雲と蘇我王国」)。
・葛城襲津彦の名を詠んだ万葉集の句碑
「日本書紀」には、689年に持統天皇が「善言」という説話集を作るために、委員を集めた事だけが記されています。「古事記の編集室」によれば、歴史上の史話を、良い教訓に変えて書かせる意図だったらしいです。その成果の一つが、上記の①の史話を元に作り替えられた④の話だったのだとか。このように、そこで作られた話が後の記紀に結構採用されたらしいです。将来の国の安寧を願い、事あるごとに争うのでなく、血筋で権威を継いでいくための教育的な機能を記紀に持たせたかった女帝の気持ちの現れということでしょう。
・樹齢1200年という大イチョウのある境内
なお、当社のそもそものご祭神は事代主命だとの事です。役小角は三輪氏や葛城鴨氏の子孫とされるから、出雲伝承からすると事代主命の後です。時代は遡りまして、「出雲王国とヤマト王権」などは、伊賀は事代主命の血を引く大彦が2世紀頃につくった王国で、敢国神社を建てたと書きます。この子孫の一部が伊賀忍者になったと言われるらしいですが、芭蕉も伊賀の隠密説があります。そのゆかりで葛城のことを詠んだのでしょうか・・・