「延喜式」神名帳に載るこの名を持つ神社が、奈良市の歌姫町とこの三碓町の二社あり、論社となっていますが、どちらかと言うとコチラが多数派のようです。富雄川に沿う丘陵部の先端にあり、東方の生駒山方面の見晴らしはなかなかのものです。大通り(7号線)から神社の石標に導かれて車で入ったのですが、チョッと狭い道で対向する車が結構いたりで少々難儀しました。一の鳥居をくぐってから駐車場までは1台しか通れないので、タイミングを見計らうしかありません。本殿ふくめて境内が重要文化財になってる為か、参詣者が何名も訪れていました。
・境内へはさらに高台に昇っていきます
【ご祭神・ご由緒】
建速須佐男命、櫛稲田姫命、武乳速命の三神で、これは歌姫町の社と同じです。ただ、本殿に祀られている御正体鏡の裏に牛頭天王・八王子・婆利采女と刻まれているらしく、神仏習合の名残や修験道との関連も考えられると、「日本の神々 大和」で土井実氏が書かれています。
「延喜式」神名帳には大和国に七つの御県神社が記されています。
・葛下郡 葛木御県神社(大、月次新嘗)
・山辺郡 山辺御県坐神社(大、月次新嘗)
・高市郡 久米御県神社三座
・境内全体
御県とは、4~5世紀のころ、大和政権がその王領ないし服属地に対して設定した行政上の単位と言われていて、「日本書紀」大化元年(645年)に゛其れ倭国の六県に遣さるる使者゛と書かれています。後世には、県から甘菜、辛菜のほか、酒、水、氷、薪などが朝廷に献納されました。ただ、七社のなかで久米御県社は事情が違うようで、「延喜式」祈年祭祝詞では社名が始めの六社しか出てこなかったり、久米社だけが小社だったりします。これは、御県の実体や機構が失われてしまったと考えられる平安時代に久米社が御県神社として公認されたためだと、「日本の神々 大和」で木村芳一氏が述べられています。
当社については、近郊の伊弉諾神社(生駒市上町)、当社、そして登弥神社(奈良市石本町)が、それぞれ上鳥見、中鳥見、下鳥見の鎮守とされ、富雄川流域の住民と深いつながりを持ってきたようです。
・拝殿。コチラは新しい建物です
【祭祀氏族・神階・幣帛等】
天平二年(730年)の「大和国正税帳」に゛添御県神戸 稲一五二束八把、租二十束、合一七二八把゛と記録が見られ、「新抄格勅符抄」にも゛添御県神戸二戸゛と記載されています。
当社のご祭神の一座、武乳速命は「新撰姓氏録」で゛大和国神別の添御県主は津速魂命の男、武乳速命゛と見える御方で、「先代旧事本紀」神代本紀・皇孫本紀にも同様の記述が有り、社伝でも添御県一帯の首長の祖先神だとしています。そして、中臣系氏族と見られています。一方、「出雲と大和」で村井康彦氏は、地域の人たちはこの武乳速命が、神武天皇に反旗を翻した長髄彦の事であると信じているとの地域伝承が有ると書きます。
・拝殿前には舞台も
【中世以降歴史】
村井氏によれば、神武天皇の孔舎衙坂の戦いでは、自分たちの先祖は長髄彦に従い、生駒山頂から大きな石を神武天皇の軍に向けて投げたものだ、と昨日のことのように話す古老が、かつていたという事です。しかも明治の時代になって、当社のご祭神から長髄彦が消えたという話も伝わっているといいます。これは、神武の軍と戦った事が不敬不遜の行為という事でタブー視する風潮から来たようで、近代国家になった時期に消された、この種の神や人物が少なくなかったと、村井氏は述べておられます。
・本殿。重要文化財
・本殿は保護の為に覆屋で覆われています
【鎮座地、比定、発掘遺跡】
「大和志」「神祇志料」「神社覈録」「特撰神名牒」が、この三碓の社に比定しており、多数意見です。一方、「大和志料」は歌姫社を推しています。根拠としては、三碓は往時鳥見庄内にあって歴史上著名な処なのだから、この地にあるなら鳥見御県と呼ばれているはずであること。一方、歌姫社には御県山(御添山)の字名があることや、さらに大化の立郡の際に添県の名前から上下の二郡に分けられたが、その二郡の境界の北方にある歌姫の方が添県を代表する社に位置としてふさわしい事を挙げています。土井氏は、歌姫の位置や字名に関しては、かなり有力な傍証だと認めておられました。
・天之香久山神社。少し背後の社叢を登ったところにあります
【社殿、境内】
本殿は五間社流造、檜皮葺、ご祭神のおられる三つの間の上に千鳥破風が付く形式で、重要文化財です。修理の時、羽目板に永徳三年(1383年)という室町時代の墨書銘が発見されました。
・福神宮。奈良時代、この地域を治めていた小野福麿公がご祭神。まもなく本殿の反対側に遷座するそう
【伝承】
東出雲王国伝承では、そもそも長髄彦は四道将軍の一人、大彦命をモデルに神話化された人であり、大和高田市曽大根の出身であることから中曽大根彦を名乗っていたと説明しています(「親魏倭王の都」等)。記紀では大彦命は北陸方面に派遣された事になっていますが、出雲伝承は確かにそのように移動したけれども意味が違うと主張します。その道程の途中に、高槻市に住んでいた時期も有るそうです。大彦命は東出雲王家・富氏の分家であり、初期大和勢力(葛城王国、磯城王朝)の一角・登美氏の血筋を持つ人なので登美彦と呼ばれ、2世紀の1回目九州東征勢力に抵抗したといいます。ただ、その時の東征軍は熊野ルートを取って宇陀から桜井市に入っており、その後の銅鐸vs鏡の宗教戦争で登美氏の一部の人が磯城地域からこの近辺(登美が丘)に逃げてきたそうです。そして、出雲伝承では大彦が生駒山で戦ったような話はないようで、むしろ滋賀県での話が語られています。
添御県坐神社のご祭神・武乳速命やその父神・津速魂命の名前には、共に゛速゛の文字が入りますが、同じ字を使う熊野速玉神社のご祭神・速玉大神について、出雲伝承はこちらも同じ字を使う饒速日命の変名だと説明しています。そうすると、当社のご祭神は3世紀に再び生駒山越しに攻めて来た九州東征勢力に関係する御方のように見たくなりますが、゛速゛の付く御方は沢山いるので無理があるでしょうか・・・或いは、出雲伝承では九州東征勢力が2回目に生駒山から攻めて来た頃には、すでに大彦命は大和にいなかったという話なので、上記した地域の古老による伝えと整合を取ろうとすると、この富雄川流域の先住氏族だった登美氏のどなたか、とも思えます。なぜ中臣系だと説明されるのか、出雲伝承の話からはピンと来ません。
・東方の絶景。右の高い山が生駒山
(参考文献:添御県坐神社公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 大和」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、布施泰和「卑弥呼は二人いた」、竹内睦奏「古事記の邪馬台国」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)