この辺りになると、三輪山の裾部になり森の中を歩く感じになり、道幅もすれ違う際には少々気を遣うくらいになります。前日は雨だったので、足元は少し柔くなっていました。
【狭井神社】
狭井神社が大神神社の摂社になったのは明治10年。「延喜式」神名帳には、”狭井坐大神荒魂神社五座”とあり、ご祭神は、大神荒魂神、大物主神、姫踏鞴五十鈴姫命、勢夜多多良姫命、事代主命の五座です。
・狭井神社拝殿
金剛時本という書物には、”狭井”の訓は”サチ”となっているそうです。サイの意味は、「古事記」には、"其の河を佐韋河と謂う由は、其の河の辺に山由理草多かりき。故、其の山由理草の名を取りて佐韋河と号けき。山由理草の本の名、佐韋と云いき」とあります。
・この神社に三輪山への登山口が。GW期間中は閉山
「大神神社摂末社御由緒調査書」によると、別称として、俗に華鎮狭井の神社といい、昔は佐為神といってました。また、華鎮社、鎮社ともいったよう。例祭は旧暦の3月18日で、701年に始まりましたが、その後しばらく途絶え、宇多天皇の御世、897年に詔勅が降り再興しました。祭りの次第では、神饌に忍冬、由理草などの薬草を奉る特徴があります。狭井河の水を飲むと病気しないといわれます。それは狭井社の大神の著しい疫
癘鎮遏の神徳によるものです。境内の奥には、その水が飲める井戸が、近代的な施設となって整備されています。
・神水の井戸
・狭井川
現在、鎮花(はなしずめ)祭は4月18日に行われています。祭の意味として「令義解」では、”大神と狭井の祭であり、春の花の飛び散るとき、疫神が分散して災いを起こすので、それを鎮めるためにこの祭を行う。よって、鎮花という”と説明しています。なお、「大倭神社注進状」によれば、当社は大和神社の別社だったと云います。
【久延彦神社】
久延彦神社のご由緒は、「古事記」の国作りの記述によります。つまり、”大国主命が出雲の美保岬にいた時、波頭を伝わって、蔓草の天のガガイモの実を船にして乗って、小鳥のミソサザイの羽毛を丸ごと剥ぎ取って着物にして、近寄ってくる神があった。そこでその名を聞いたけれども答えない。さらにお付きの神たちに聞いても誰も「知りません」という。そこでヒキガエルが言うのに、「この者は案山子(カカシ)のクエビコがきっと知っているでしょう」と言った。クエビコを呼んでお問いになった時に、クエビコは答えて「これは神産巣日神の御子の少名彦那神で」”の話に登場するクエビコがご祭神です。
・久延彦神社拝殿
さらに「古事記」にクエビコの説明が有ります。”今の山田の案山子のソホドのことである。この神は歩くことが出来ないのに、あまねく天下の事を知っている神である” この説明から、知恵の神様とされ、受験合格・学上成就の霊験あらたか、と神社は説明しています。一般的に説明されてるのは以上と思います。
(参考文献:谷川健一編「日本の神々 大和」、中村啓信訳注「古事記」)
・久延彦神社境内の三輪山遥拝所
【伝承】
東出雲王国伝承では、狭井神社は、古くはサイノカミ三神が祀られただろう、と推測しています。ただ、三つ鳥居があるのは、大神神社拝殿奥と檜原神社です。一方、久延彦神社のソホド神とは赤顔のサルタ彦の別名だと云います。
サルタ彦は元々出雲の神であり、古代出雲では国境の峠や村の入口で、敵や悪神の侵入をサエギルと考えられていたそうです。それで怖いサルタ彦人形が当時の出雲国の峠に、カカシのように飾られたらしいです。そこに3世紀、宇佐の姫巫女を擁する東征軍がやって来た史実が、天孫降臨のウズメノ命とサルタ彦の話の元になったと説明されています。ただ、大和でなく伊勢に行ってしまうのは分かりにくい、と述べられてます。(「古事記の編集室」)
サイノカミは本来は幸の神なので、上記で金剛寺本が”サチ”と読んでいるのは、その事を言っているように思われます。コチラにリンクした、東出雲、武内神社の記事に”幸ノ神"を主張する写真を掲載しています。ただ、サエギルの”サエ”も兼ねると伝承では云っています。
・久延彦神社境内からの絶景
そもそも出雲国風土記には該当する神話はないし、『出雲の美保岬』には本来土着の御穂須須美命の記録があったこと、日本書紀にははじめは二神は紀伊にて活動してるらしき記述がある。考古学的にも大物主を祭る畿内周辺に縄文晩期の遺跡が多いことをみるに、出雲族などというのは近現代の創作だろう。