25年度、地域の歴史・史跡などの現地学習、今回は下郷・田島方面へ・・・
下野街道・中の沢観音堂・観音沼の翠嶺の園でランチタイム、散策。そして嶽之堂・徳昌寺までを
1回目に。永田三十三観音めぐりは次回にアップします。
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「会津五街道」 南へ向うのは下野の国(栃木県)今市をめざす「下野街道」・・・
会津五街道の、南のほう、下野の国(栃木県)今市をめざすのは「下野街道」・・・
今も、所々、往時の街道が整備され案内板も立てられウォーキングもされているようです。
今年はNHKのドラマ「八重の桜」で「会津五街道」がでてきました。
若松城下の大町一之町の四つ角の石柱を起点に、本道五筋が放射状になっていて
大町一之町には制札場が置かれ、「札の辻」 と呼ばれた。
南山通り(下野街道) 大町一之町の札の辻から、下野/今市 (栃木県日光市今市) を結ぶ街道。
行程は、32里 (130Km)。 江戸へは 60里 (240Km)。
白河街道より五里(20Km)短かく、他藩通行が少なく、日光に参拝できるなどから・・・
南会津(御蔵入り)地方の江戸への米輸送(廻米)する重要な道路だったという
しかし、1683年の大地震で五十里湖出現し、通行不能に・・・
1695年には下野街道より七里も短い松川新道が開通したが、1699年8月の暴風雨で通行不能となり、
財政事情から開通九年目で脇街道に編入され、参勤交代や廻米道は白河街道へ移ったという。
二本松街道と白河街道は東に向かい、
蚕養国神社で、北への「二本松街道」と、東へ向う「白河街道」と別れる
西をめざすのは越後の国(新潟県)への「越後街道」。
北への道は若松城下と米沢城下を結ぶ「米沢街道」。
江戸時代には、徳川家康は全国の街道の整備を命じ
東北地方で江戸に最も近い城下町であった会津藩は、国家事業として街道を整備・・・
保科正之公は、榎を植えて一里塚とし、松並木を植え、橋や船渡し、宿場町整備・・・
そのことで往来が多くなり、米や朝鮮人参、漆器、絵ろうそくなどの特産品が発達したという
中の沢観音堂 純和様の阿弥陀堂建築の流れを世襲し国重文指定
口伝によると大同2年(807)に徳一上人が開山したと伝えられています。
その後、正光寺、光明寺に属していたが、昭和28年4ケ寺とともに合併し旭田寺となりました。
現在はこの地に観音堂を残すのみという・・・
観音堂は三間四方、寄棟造りで会津地方でも数少ない純和様の阿弥陀堂建築の流れを世襲したものとされ
東北地方には中尊寺金色堂という平安時代の阿弥陀堂があり、県内には白水阿弥陀堂があるが、
中の沢観音堂はそれに次ぐ文化遺産として昭和35年、国重文指定をうけた。
昭和38年解体修理が行われて判明したことは、
御堂の基礎や仏像に火事の痕跡があり、発掘調査の結果焼土層、及び旧礎石跡なども発見された。
建立年代については、詳らかに出来るものは無いが、
脇侍不動明王の光背裏面に嘉慶2年(1388)の年号を含む墨書銘があるという。
平安時代建立の御堂が室町時代初期に火災で焼失し、ほぼ同型の建物が再建されたと推定されています。
観音沼
観音山のふもとにある 神秘的なムード漂う沼、観音沼。沼のところどころに、浮島があり
水面に影を写し素敵だったけど、地続きになって浮島が減って神秘的なムードが薄れたかなと・・・
昭和60年に「観音沼森林公園」として整備され、沼を一周する遊歩道や広場や展望台もあります。
その周辺には、 遊歩道が整備されていて、四季折々の美しい景観が楽しめます。
また、美しい花や木のある森林公園として、人々がくつろげる場 となっています。
人気の紅葉シーズンには、拡張した駐車場でさえ足りない事態とか・・・
嶽之堂(馬頭観音堂)
観音沼の畔に建てられている観音堂です。
嶽観音堂の説明板によると
「観音沼のほとりにある嶽観音堂は、延暦16年(797)坂上田村麻呂が蝦夷征伐の折、
参戦した人馬の供養の為に、観音山中腹の巌窟内に聖観世音菩薩を祀ったのが開基と伝えられる。
その後寛文3年(1662)、参詣の便が悪いからと、僧尊栄和尚が現在地に遷座・・・
現在の堂宇は明治25年建立、唐様方三間宝形造りで、向拝、紅梁、懸魚などの彫刻は見事なものです。
山門は天保13年(1843)の建立・・・」とあります。かっては田島の祇園祭りに次ぐ賑わいだったという
明治38年5月24日の会津日報によれば、馬頭観音の祭礼に村々から飼馬を盛装させて集まった混雑の中
にわかに驚いた馬が人を蹴り怪我をさせたが、居合わせた医師が応急の治療をして命に
別条はなかったのは、大慈大悲の観世音の御利益なるべし。とあるという・・・
山門は阿吽立像と狛犬像が安置されていてめずらしい。お堂全体も、彫刻もそれは見事で綺麗でした~
徳昌寺 中世領主長沼氏の菩提寺
通称、山寺と。中世領主長沼氏の菩提寺で、若松天寧寺の末寺という。
永享7年(1435)長沼氏が通覚和尚を開山として建立と伝えられる。
境内墓域に、天正18年没(1590)の長沼盛秀墓(五輪)と被葬者不明の墓が3基並んでおり、
長沼氏以後の城代の墓とも、盛秀の父・実国の墓とも伝えられている。
この徳昌寺には、会津の加藤明成の筆頭家老だった堀主水の夫人の寿林の墓がある。
堀主水は明成と不和になり、一族300余人を引き連れて会津を出奔し、明成に討たれた。
寿林は田島の検断の職にあったの兄の下で、持仏堂を造り亡夫冥福を祈ったという。