エルサレムの近くにあったとされるBetania(ベタニア)に
弟Lazzaro(ラザロ)と暮らしていた姉妹で
イエス・キリストと親交があったといわれています。
エルサレムに向かう途中、
キリストが彼女たちの家に立ち寄ると
二人の姉妹はそれぞれ異なる形でキリストを迎え入れます。
姉のMarta(マルタ)はキリストのために甲斐甲斐しく働き
もてなしの準備を整えます。
一方Maria(マリア)はキリストの足元に座り
キリストの話に耳を傾けています。
それを見たマルタがキリストに向かって
「妹はそこに座っているだけで、
私が一人で支度をしているのに、
なぜなにも仰らないのですか。
私と共に支度をするように言ってください。」
と声をかけます。
するとイエスは逆にマルタをたしなめます。
Gesu a casa di Marta e Maria
Alessandro Allori,
Cappella di Maria Maddalena -Palazzo Salviati e Portinari
このエピソードは有名なのでご存知の方も多いと思います。
マルタの行動が「活動的生活」
マリアの行動が「観想的生活」といわれ
どちらかというと、
信仰の世界では後者が美化されがちではあります。
もちろん両者に優越などありません。
二人の異なる行為、
「主の言葉を聞くこと&観想すること」と
「誰かのために具体的に行動すること」は
相反するものではなく、
むしろキリスト教の教えでは
どちらも基本的な大切な行為であり、
決して切り離されるべきではないものです。
二つの異なる行為が調和を保ってなされることが大切なのだと
キリストはこのエピソードで諭しているわけです。
なぜキリストがマルタを諌めたのかというと、
彼女が忙しく立ち回ることに意識をとられ過ぎて、
切り離してはならない二つの行為の
一つだけに固執したからです。
これが例えば、マリアがキリストに向かって
「姉はあなたの声に耳を傾けず働いてばかりいます。
共に話しを聞くように言ってください。」
と言っていたとすれば
キリストは間違いなくマリアを諌めたのでしょう。
もちろん、今のキリスト教にもその教えは伝えられています。
祈りと奉仕は常に表裏一体であり、
奉仕のともなわない祈りは本来の意味を持たないということ、
また奉仕にばかり意識が偏ると、
自分への奉仕に陥り結局は自己満足で終わり
助けを必要とする者の中に宿る神に仕える
という本来の意味をなくしてしまいます。
物事は一面から捉えていたのではならぬという意味では
キリスト教を離れた場であっても
非常に基本的な教えなのかもしれません。
弟Lazzaro(ラザロ)と暮らしていた姉妹で
イエス・キリストと親交があったといわれています。
エルサレムに向かう途中、
キリストが彼女たちの家に立ち寄ると
二人の姉妹はそれぞれ異なる形でキリストを迎え入れます。
姉のMarta(マルタ)はキリストのために甲斐甲斐しく働き
もてなしの準備を整えます。
一方Maria(マリア)はキリストの足元に座り
キリストの話に耳を傾けています。
それを見たマルタがキリストに向かって
「妹はそこに座っているだけで、
私が一人で支度をしているのに、
なぜなにも仰らないのですか。
私と共に支度をするように言ってください。」
と声をかけます。
するとイエスは逆にマルタをたしなめます。
Gesu a casa di Marta e Maria
Alessandro Allori,
Cappella di Maria Maddalena -Palazzo Salviati e Portinari
このエピソードは有名なのでご存知の方も多いと思います。
マルタの行動が「活動的生活」
マリアの行動が「観想的生活」といわれ
どちらかというと、
信仰の世界では後者が美化されがちではあります。
もちろん両者に優越などありません。
二人の異なる行為、
「主の言葉を聞くこと&観想すること」と
「誰かのために具体的に行動すること」は
相反するものではなく、
むしろキリスト教の教えでは
どちらも基本的な大切な行為であり、
決して切り離されるべきではないものです。
二つの異なる行為が調和を保ってなされることが大切なのだと
キリストはこのエピソードで諭しているわけです。
なぜキリストがマルタを諌めたのかというと、
彼女が忙しく立ち回ることに意識をとられ過ぎて、
切り離してはならない二つの行為の
一つだけに固執したからです。
これが例えば、マリアがキリストに向かって
「姉はあなたの声に耳を傾けず働いてばかりいます。
共に話しを聞くように言ってください。」
と言っていたとすれば
キリストは間違いなくマリアを諌めたのでしょう。
もちろん、今のキリスト教にもその教えは伝えられています。
祈りと奉仕は常に表裏一体であり、
奉仕のともなわない祈りは本来の意味を持たないということ、
また奉仕にばかり意識が偏ると、
自分への奉仕に陥り結局は自己満足で終わり
助けを必要とする者の中に宿る神に仕える
という本来の意味をなくしてしまいます。
物事は一面から捉えていたのではならぬという意味では
キリスト教を離れた場であっても
非常に基本的な教えなのかもしれません。