7月15日付で発行したメールマガジンでは
夏の恒例ともいえる、
イタリアでの捨て犬について少し紹介しました。
それはイタリアの非常に恥ずべき一面であり
何とかして、犠牲になるペットの数を減らしたいと
個人的には思ってはいるのですが
なかなか改善されないのが実情。
しかし、イタリアのペットを取り巻く事情も様々で
日本ほどのヒートアップではないけれど
ワンコ・ニャンコへの愛情の注ぎ方は
一昔前のそれとは異なってきています。
ペットをヴァカンス先に放置する人がある一方
家族の一員として溺愛している人も増えているのです。
その恩恵を受けているのがペット食材の会社。
2007年はイタリア国内で
ペット用のえさ、スナックなどで
年間総額17億ユーロの
売り上げを記録したといわれています。
一部の調べではイタリアで暮らすペットたちの
約44%が家族の残り物をご飯としているということで
半数以上はペット用のご飯をいただいているということです。
ヨーロッパ諸国平均75%が残り物ご飯という数字に比べると
イタリアのペットは専用ご飯を食べている割合が
非常に高いということになります。
うちのビリーもチッチーノも基本的に専用ご飯。
しかもビリーは特に年々体調の関係もあり
結構高級ご飯を食べるようになってきました。
我が家のペットエンゲル係数はかなり高い!
時に私の一週間の食費より高かったりして。
髪を切りました、また。
この前日本に帰ったとき、
5月末に実家の母ご用命の美容院でカットしてもらって
既に一ヵ月半が経過して
私のショートカットの頭は
なんだか手に負えない状態になってきてました。
yossyに紹介してもらった
日本人美容師さんの勤めるサロンに行ってきました。
まず、どんな風にしたいのかカウンセリング。
実は私はこれが苦手。
どうしたいのか自分でもよくわからないので、
尋ねられてもまともに答えられず
大抵は「お任せします」とか言ってしまう。
そうすると大概、美容師さんが
じゃぁこんな風にしましょうかねぇと提案してくれるので
そこからなんとなくはじめて
私の意見を引き出してもらいながら決定ということになります。
まぁ、今回は一応
「伸びてきちゃったので、なんとなくまるめのボブで」と
自分の意見らしいことを言ってみて後はお任せしました。
生え際に目立つ白髪のことも気にしてくれて
染めたほうがいいといわれたのですが、
今回は時間がないのでと伝えると
ではヘアダイで少しぼかしましょう
と提案してくれたのでそうすることに。
シャンプーのときに
ヘッド・マッサージもしてもらって快適。
しかし、私はシャンプーのときやカットの際に
美容師さんと世間話するのもすごく苦手。
なに話していいのかわからないし、
大抵中途半端な返事ばっかりしています。
みんなには「意外」といわれますが
私は結構人とのコミュニケーション取るのが下手です。
特に初対面の人だったり、よく知らない人が相手の場合。
打ち解けた相手なら一人でも喋り捲るし爆走しますけど。
なので美容院は苦手な場所のひとつなのです。
どきどきしながらお話してシャンプー&カットしてもらって
短めの前下がりボブになりました。
今回担当してくれた日本人の美容師さんは
とてもプロ意識の強い方で感心しました。
このイタリアで(フィレンツェで)
日本的なサロンを実現するためには
苦労も多くて大変だろうなぁと思いましたよ。
イタリア人は美容院はきれいにしてもらうところ
と認識しているので
「一番汚い状態で訪れる」のが普通
と考えている人多いんですよって言ったのが印象的。
日本人だと失礼のないように
シャンプーしてから行こうと思ったりするけどねぇ。
文化の違いはこういうところで如実にでますね。
彼女のカットはすごく細かかった。
私の量の多くて頑固な髪をすくのに
鋤きバサミでカットして、かみそりでそぎ落とし
更に小さなはさみで毛先を細かくカットしてと
3段階のテクニックでまとめてくれました。
なので、切ってもらった時はかっこよいのですが、
これが伸びてくるときっと手に負えない状態になります。
ちょっと心配。
普段何も手をかけないのですぐにモサモサになりそうな予感。
今度は時間かけてきちんと全体的に
染め直してもらうことにしましたが
もう既に次回のコミュニケーションの心配をしていたりします(笑)。
なかなか消化しきれない作品が多くて悩んでいたりします。
今回見たのは「Joshua」。
マンハッタンの中上流家庭を舞台にしたサイコ・スリラー。
裕福で幸せな若い夫婦に
二人目の子供が生まれるところから物語は始まりますが
ピアノの天才である9歳の長男が、
妹の誕生に嫉妬して徐々に変化していき
やがて幸せな家族が崩壊していくというのが大筋。
母親は出産後の育児ノイローゼ気味になり、
ナーバスで幻聴・幻覚に襲われ、
長男への愛情も希薄になっていく悲壮な雰囲気を漂わせ、
父親は仕事と家族のどちらでも
さらっとした表面的な係わり合いを続けて、
成長しきれない30代の様相を呈します。
妹の誕生で自分への愛情と注目が薄れて行くのを
はっきりと感じる長男「Joshua」 は
少しづつ性格を歪ませていきます。
その裏には
実は狂信的なキリスト教信者である祖母(父親の母)の影響や
その昔精神的な問題を抱えていた叔父(母親の弟)の影響も
充分に考えられます。
物語は非常にゆっくりしたテンポで流れていき、
まるで真綿で首を絞めるようにじりじりと家族が崩壊していく様子が
言ってみればサイコ・ホラーなのかもしれないけれど、
実際理解不能なシーンや無駄な挿話もあるし、
最終的に私には謎解きができないままで終わっちゃいました。
子供には何の罪もないんだけどね。
映画の中では悪魔的に描かれています。
すごく怖いわけじゃないけど、うすら怖い。
こういう映画のほうが実はずっと後を引いちゃうのかもしれない。
フランスの作家スタンダールが
1817年にイタリアを旅した際に訪れたフィレンツェで
自身が襲われた一種のパニック症状を記し
やがて著作の中でも書き残していることから
作家の名前をとるようになった、
フィレンツェなどの美術観光都市で
繊細な観光客を対象に起こりやすい
眩暈、呼吸困難、吐き気、失神などの症状をまとめて
「スタンダール症候群」と呼びます。
スタンダール自身は
サンタ・クローチェ教会の
フレスコ画を鑑賞していたときに眩暈に襲われ、
ふらつきながら広場にでてベンチに腰掛けたようです。
著名人の巨大な墓碑彫刻、
大きな画面に綿密に描き込まれるフレスコ画など
確かにサンタ・クローチェ教会は独特の雰囲気と空気を持っていて
ある意味圧迫感があるのかもしれません。
フィレンツェの美術館や教会の閉ざされた空間に
あまりにも多くのそして大きな美術品が収蔵されていることが
原因とも言われていますが、
詳細の原因は解明されていません。
フィレンツェという街自体が秘めている、どこか耽美な閉塞感が
訪れる人々の精神に作用しているのかもしれません。
イタリア人でこうした症状を訴える人は少なく、
西ヨーロッパ諸国の人々、そして日本人にも
こうした不調を訴える人が多いのだそうです。
イタリア人は小さいころから見慣れているからなのでしょうか。
傾向としては文化教養の高い
一人暮らしの人に顕著に表れるようです。
人によって症状は様々ですが、軽度の場合もあれば、
数日の入院を余儀なくされるような状態になることもあるとか。
フィレンツェの街中にあるSanta Maria Nuova病院の精神科で
こうした症状を訴えて運ばれてくる患者を診察してきた女医が
Graziella Magherini(グラツィエッラ・マゲリーニ)で
1989年に「スタンダール症候群」を執筆し、
そのなかで症候群の中でも
特に顕著なケースについて取り上げています。
彼女は既に75歳を超え、現場を退いていますが、
フィレンツェの美術品が
旅行者の精神に及ぼす影響についての研究を続け
2004年から2005年にかけて
「ダヴィデ像」を鑑賞した旅行者対象に調査。
ダヴィデ像の与える精神的な影響についての研究結果を
一冊の著作にまとめています。
「Mi sono innamorato di una statua」
彫刻に恋した私と題された著作の中で
ダヴィデ像と鑑賞者のリレーションについて記しています。
観る人によって魅惑、驚嘆、動揺、自己喪失、
放心、競争心の芽生えなど様々な感情が起きていて、
精神的にも影響を与えているのだそうです。
そのいずれもが最終的には自己の内部への問いかけとなり、
そうした自己の見直しなどの啓発が
美術品のもつ一つの力なのかもしれません。
ダヴィデ像にももちろんそうした力があり、
単純に芸術品として傑作であるという事実だけでなく
観る者の捨てきれない過去や
心の片隅に残された思いなどにまで
自身の目を向けさせるように精神の深い部分で作用し
時にそれが不快感となって表れたり、
肉体的な不調として認識されたりします。
スタンダール症候群とはそういうものが絡み合って
起こる症状なのかもしれません。
私は自分でも責任感は強いと思うし、
正義感も人一倍強いと思っている。
思っているだけじゃなくて、実際そうなんだけど。
だからこそ、その部分を批判されたり
否定されるとすごく動揺する。
それが特に与えられた仕事だった場合
責任持たずに従事するわけがない。
でもなかにはそれを理解せずに
自分の不快感だけを前面に露わにして
攻撃してくる人がいたりする。
なんで最近の日本人には
突拍子もない言いがかりや
相手のことを思わない
暴言を吐く人が増えているんだろう。
昨日私はかなり動揺して落ち込んで
ずいぶん傷つきました。
でも一晩ビリーとチッチーノを抱いて悩み続けて
自分は間違ってないと自信をもって言えるし。
朝日はいつものように明るくまぶしくて
清々しくてよかったな。