モノと心の独り言

コミュニケーション/メディア/コミュニティ ココロの建築家になりたいと・・・ 

コミュニティは、コミュニケーションにより求めらる帰属感

2006-06-25 15:39:20 | コミュニケーション-メディア
『コミュニティ -グローバル化と社会理論の変容』ジェラード・デランティ著 山之内靖+伊藤茂訳 NTT出版

斜め読みだった本書を、ゆっくり読んだ。
私なりに読み取った概要は、

コミュニティという言葉が多用されている。
近代化のなかで失われたと云われている、伝統的な社会の地縁・文化・道徳など、懐かしまれるコミュニティがある。
その時代では人は身分により社会に固定されていた。
近代(モダン)においては、国家・社会に対する理想としてのコミュニティが想像された。社会(ソサエティ)から生活が分離し公私に別れ、個人は生産・再生産の単位としての家族の属し階層化され、国民国家同士が戦った。
そして現代(ポストモダン)、
経済や文化が交通・通信・情報ネットワークの上でグローバル化し、国家は制度をもてる経営体のようなものとなった。個人は生産と消費の最小単位として、職域や家族に含みきられない存在となった。
ここで、コミュニティは個人の帰属の憧れの対象として、
個人相互のコミュニケーションと行動のなかで創造されるものとなった。

そのコミュニティは、信仰・制度・倫理や人種、ジェンダー、文化など、
特定の証、象徴、意味を担ったり、
社会や国家に対峙する政治的なものに収まるものでもない。
個人は自立した存在・固定した人格というよりは、
常に複数の組織・利害・関わりのなかでの相対的な存在となっている。

個人は、社会やコミュニティに対立するものではなく、
社会の中で、他の人と討議しあい、互いの差異を認め、
協働としあうことなどによって、社会的な存在となる。
逆から云えば、自身の存在感、満足感は、社会との関係の中にある。
そのコミュニティーとは、
活動や運動の内容や意味が共有される閉じたものではなく、
欲望され創造されたもの、ともに関わりあっている状態として考える。

似ていることに、”社交”という言葉があるが、
これは帰属感を持った上での関係のようだ。
”働くこと”をアジア的に考えれば、
生産することも、関わりあっていることだし、
現代では、消費こそ関係づくりである。

著者の結論は、コミュニティ自体が、確固として安定したものではなく、
場所に比べれらるような帰属の対象としての実体性をもてるかどうかは、
まだ研究途上と書いている。
解説の山之内靖氏は、場所に関わる身体性についての記述がないと書いている。

私は、その場所と関わる身体性もまた、
広義のコミュニケーションに含まれないかと考えている。
コミュニケーションを言語・記号から広げ、
身体・臓器・頭脳の刺激の感応と考えれば、
身体性を神秘化しないで済む。
コミュニケーション自体が、
コンテンツのキャッチボールみたいな情報交換というより、
同時的な感応(共感や反発:同化や異化)の積み重ねという考え方からすると、
場所に関わる身体性も、その外界と身体との
感応の持続や積み重ねとしてのコミュニケーションに含められると考える。
場所と身体との関係の深さは、
コミュニケーションの質の問題ではなく、量の問題だ。
身体と物理環境との直接の関わりは、級数的に多いのだが、
その関わりを間接的にしてきたのが人間なのだから。

前近代が個人間の直接的関係を主体とした時代、
モダニティが間接的社会関係の頻度・規模・重要性の増加した時代、
ポストモダンでは、さらに間接的な社会関係に形を与えるのが
ヴァーチャル・コミュニケーションだと考えるとき、
この三時代は重層しているのであって、転換しているのではない。

現代的な問題は、それぞれのコミュニケーションの媒体が
言語・記号に還元されない時代がきているということだ。
音楽や映像がパッケージとして自立して、
ITネットワークと個人機器を舞台に、言語/言説のように流通している。
このような自立したメディアが、人や場所・自然との関係ではなく、
コミュニケーションのコトバとなり、グローバルネットワークを飛び交う。
個人は、その伝えられるコンテンツ・パッケージを、
”好き・嫌い”、”わかる・わからない”と、
丸ごと飲み込み、分解・抽象化する習慣を失う。
個人の表現は、そのパッケージに対する情緒であり、
複数のパッケージの操作・編集である。
そのパッケージ自体への言及は、さらに詳細な嗜好であって、
かみ合わず、認め合うしかない感想である。

イコンやイデアの表象を交わし合う、
メディアによるコミュニケーションではなく、
メディアをメディアで、行動を行動でコミュニケートする、
間・間接的なコミュニケーションが増えている時代だ。

多様な生活行動メニュー、
それは、趣味・遊び、学習・支援、など
仕事や家庭の役割に関係なく選べる多様な生活行動だ。
その役割もまた、匿名化し、交代可能であれば、
個人の帰属感は、存在感に関わる。

溢れるメディア・コンテンツ、
それは、映画であったり、キャラクター、ブランドであったりするけれど、
帰属感をもてるほどの固執感はなく、
話のネタであり、ハマッタたり抜け出たりする程度なのだ。

膨大なコトやモノ自体がコミュニケーションのコトバとなってきたときに、
人と人とが帰属感を共有しようとすれば、
それは特定の意味や表象の利用でも、場所の共用でもなく、
コミュニケートする仕組み自体、コミュニケーションのシステムの共有となる。

つまり、現代のコミュニティは、
求められる帰属感を得るコミュニケーションのシステムの共有であり、
選ばれた社会関係のシステムと解釈するべきなのだろう。

この選ばれる社会関係のシステムは、
交通・通信・情報のシステムに還元されないのだろうか?
というのが次の一歩なのだ。

これからの個人携帯情報端末



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