モノと心の独り言

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政党政治の終焉、文学の始まり「きことわ」

2011-01-25 08:40:29 | コミュニケーション-メディア
全知全能の神、
武力や人格を担う王・領主、
イデオロギー、
検証されうるデータの範囲での科学、
交換できるモノの市場、
どれも相対化されたなか、
ネットワークは、人の情動を狂気に凝縮する可能性をもっている。
しかし、
一度、人格とかイデオロギーに今更、身を委ねられないと決断すれば、
その場・その領域に関わる人が、経過を検証しながら検討するプロセスを
共有する仕組みを求めることになる。

政党のまとまりを、主義に求めず、人に求めても、人は自身も他人も状況の中で変わり続ける。免罪符のような投票後は関与できない制度では、政治に関わっているわけでなく、利害関係者が議会・行政を取り巻いて、コトを闇に包む。
まして、日替わりの市場調査やスキャンダルづくりのように、報道ですら商品化しているときに、何を信じればいいのだろうか?

’イメージをそっと届ける’芥川賞受賞作家の朝吹真理子「きことわ」を読んでみたい。
「書く前に、イメージの手がかりを、切る、貼る、かさねる、糊を塗り、手で壁面に押す。
そうした肉体に直接つたわる感触そのものに欲望の主体はあるように思う。」
<朝日新聞1月25日朝刊 より>

互いに関わり合う手がかりを積み重ねてゆく身を置く地域の行く末を、場を伴にし対話や作業を通じて呼応してゆく活動は、だれもが使うようになってきたスマートフォン・スマートTVで、時間のズレを越えて場に凝縮できる時代。
私たちの身体と行動自体がメディアとなって、互いの欲望を欲望し続け・軌跡を残し・方向を見出してゆけるのでは。
人格もイデオロギーも、変化を続けるならば、世界に開かれた地域の意思を創り合おうとするのが政治になってきたのでは?
政治は、協働の時代、それぞれの立場・意思を、持続する軌跡で検証しながら暮らす協奏の時代なのだ。そのために感じたことを記録し、貼付け、凝縮する作業を、一つの小説のように、地域で続けなければならないだろう。「情報」が多様になり、分散し、断片化し、それぞれの分野・業界・カテゴリーのなかで分裂をつづけてゆく。象の上の蟻までも、分裂と躁鬱を繰り返している。
測りうることだけで検証される科学の行方は、測られたことだけの世界へ。

何にも増して、暇をつくる努力、暇つぶし消費者にならない努力が必要だ。’エンタ’や’ゲーム’などの気散じに、あやされるのは避けよう。’癒し’に眠らされ、’夢想’に踊らされれば、足は萎え、気力は消耗する。暇を作り、騒音を遠ざけ、自身の感覚を開けば、自身と周囲の関わりの中で、ゆっくりと気がかりが寄り合ってきて、イメージに、そしてふとコトバに凝縮する。それは文字でも、図でも、音でも、動作でも、切り取られた写真でも、組み合わせた映像でもいい。ネットワークを介してでもその手がかりを捨て去らず、伝え・知り合うことができればいい。全てを伝え・共有することはできない。手がかりのその場・その時に立ち会うことで、他の欲望を自らの欲望へと凝縮し、生き様も持続してゆく。持続するから、比較できるコトが繋がり、より深く・強く、楽しめる。’人’の’間’に活きる結果が、人間社会なのだろうから。

「きことわ」を読んでみよう。

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1 コメント

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Unknown (バカボンの叔父)
2011-01-25 08:50:33
神が死に、近代個人が分裂し、イデオロギーと科学が支配した20世紀は、終わっているが、人は生きつづけている。メディオロジーを実感している最中に、議院内閣制・政党政治を絶対視している記事と、芥川賞受賞者の記事が、同じ1月25日朝日新聞朝刊に載ったので、つい書き込んでしまった・・・ヤレヤレ
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