モノと心の独り言

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「リアリティ」と「リアル」、意図と機能が同じ次元になる時代

2005-10-05 08:07:54 | コミュニケーション-メディア
CEATEC2005を観ていて、「リアリティ」がリアルよりも鮮やかな時代になったのだと実感した。

キーノートセッションは、インテルのデジタル・ホーム事業本部のD.J.マクドナルド氏だった。
通常のプロジェクターによるパワーポイントや映像のでもだけでなく、
実際の多くの提携企業の製品を舞台にならべ、それぞれの連携動作のデモをおこなっていた。

いよいよデジタル・ネットワークは、業務レベル・通信レベルから生活感覚レベルへと入りだした。
それは、家庭電話から携帯・WEB、ラジオ・TV・ゲーム機・PCからメディア・プレーヤーへと展開する。

この高感度・高密度・高精度な視覚・聴覚メディアは、
個人の視覚的世界・音響的世界を被い、
生活は、その変化しつづける感覚を消費し続けることになる。

日常は、無秩序な視覚・聴覚・嗅覚が存在している世界。
そこに意図ー機能による、企画・デザイン・演出が施されつくして、
いよいよ、「リアリティ」が、「リアル」を追い越してゆく。

そのなかでアフォードされるのは、
「親しみのある相手・対象」からの眼差し・メッセージ。
その相手・対象の意図・機能が分散しだすと、
日常生活自体が”背景”となり、
意図・機能が凝縮してメディア舞台に現れたときが”図”となり、
”メディア”化され、親しい間柄の間の舞台に載る。

日常の混沌は、ノイズ
親しい間柄とのコミュニケーションが、リアル
その共感媒体が、メディアで表現されたもの?

いつのまにか、現実との関係がノイズへ、
意図され・機能的に再構成されたメディアが、リアルへ位置を替えた。
それは、情報ネットワーク上に載ることだけではなく、
時空間的にデザインされる、自然・環境・モノ・時刻(年月日時)もまた、
意図され・機能的に再構成されるべきものとして扱われる。

この意図され・機能的に再構成されつづける「リアリティ」という、
永遠の遅延・”お預け状態”こそ、市場社会の原動力なのだろう。

その仮想世界を支えてきたのが階層的に発達した人類の脳だろう。
意図するだけの文明は数多かったが、機能的に再構成を続けてこれた文明は、僅かだ。

意図すること・機能的に再構成すること、
これは、トピックの自己組織化の問題ではないか?

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