5月6日19時半からのNHK総合TVで、「日本のこれから草食系で何が悪い・・・草食系つぶやきで参入の始まりを観た。」
’草食系’というテーマについて、司会の進行による発話意見とケータイからのテキストを画面にながすTV番組だった。
面白かったのは、発話による主張は場を仕切りたがり、つぶやきは水を差したがること。
ちょうど山本七平の「空気」と「水」の有り様のようだった。
しかし、司会が'肉食系’のコトバ=’お金’・’昇進’・・・で語るので、発言とつぶやきは、混ざらない。
TV画面としては面白いが、この番組は再度消費を盛んにし、国力を高めようという意図で企画された場だ。
草食系の系譜を深掘りして、繊細な感覚/文化の方向には進みそうにないので、TVを離れた。
身近な出来事・身体・感性に敏感な草食系は、「もののあわれ・もののケ」の系列であり、「あっぱれ・ハレ」との対極にある。
草食系では、論理や物語のような展開ではなく、身体の内外に共鳴し、呼吸しているような感じではないか?
つぶやきは、内に語りながら外に語る。
「空気」を読む、読まないというコトバがある。
『「マスメディアの「構造」と「空気」』柴山佐利 編著にて、最近のお笑い番組などの例をとり、「問いかけと問い直しのメディア論」が書かれている。
マスメディアは’メディアのメディアとして、番組内でも番組相互・局、媒体相互でも、論理ではなく、問いかけ・問い直しによって「空気」を作り続けているとのこと。
山本七平が「空気」を書いたのは、日本軍・日本国民の大東亜戦争突入や、オイルショックの庶民の買いあさり、公害・環境問題の宗教化などにおける日本人の行動・決断方式が続いていることを明らかにしたかったからだ。
「空気」に「水」を注すのもまた、その「空気」が支える、その場の既存勢力。週末の政治・時事番組のような「空気」抜き。’つぶやき’もまた、その場を設定した主体を前提にし、反撃を受けない距離を保ちながら、社会化されてゆく。
ニコニコ動画の身体的なコミュニケーション・メディアも、その動画画面が映しだしている場に対するテロップで疑似同期につぶやかれる。その話題がマスメディアで流されたものや、ネット上のランキングというマスに呼応していれば、つぶやきは、マスメディアを補強するものになる。ツイッター自体に、良し悪しはない。どのような場面が設定され、どのように読まれているかである。事業仕分けの中継にツイッターがつぶやいても、その仕分けられる事業の検討されている内容を知らなければ、野次馬の雑音であり、知っている人であれば、多くの気付きに繋がるだろう。内容理解もTVのワイド番組でスキャンダラスに感情を込めて叫ばれた程度であれば、ネタの一つとなる。そのネタが本気にふくらむ方向の確率をあげたいのは、マスメディアのスポンサーの意志でもある。どっちに転んでも、話題が増え、市場相場が上下すれば、利ざやを稼ぐ資本家には都合がいい。小資本家の右往左往も吸収して、相場を作れる立場にいるのは誰かいるのか、それとも誰もが資本への欲望に振り回されているのかは、考え方しだい。
<人は、論理的説得では心的態度を変えない。
特に画像、映像、言葉の映像化による対象の臨在感的把握が絶対化される日本においては、それは不可能と言ってよい。>
山本七平著『「空気」の研究』から
天皇の身影、原爆雲とヒロシマドーム、’平和’・’民主’・'国家’などが、絶対視されてきた日本国民の決断は、
その場の「空気」に縛られてきた。
自然や儒教的な畏敬心をうしなった日本人は、西欧のように宗教と科学のバランスもなく、その場の臨在感的な判断=「空気」を読んで行動する。
内に語るコトバだけでは、個人の言葉を越えず、その場の空気に流されるか、水を差して後戻りをして、未知への軸となりきらない。
残るコトバは、「もののあはれ」。
わかっていても変わらないことこそ、「いと、をかし」
やはり、極東の離れ島、地勢的な隔たりに守られ、南北に長く、海流も複雑で島も山も多く、変化/楽しみには事欠かない。
外来コトバをつぶやいていても、この外側にでて、大局からは語れない処のようだ。
’草食系’というテーマについて、司会の進行による発話意見とケータイからのテキストを画面にながすTV番組だった。
面白かったのは、発話による主張は場を仕切りたがり、つぶやきは水を差したがること。
ちょうど山本七平の「空気」と「水」の有り様のようだった。
しかし、司会が'肉食系’のコトバ=’お金’・’昇進’・・・で語るので、発言とつぶやきは、混ざらない。
TV画面としては面白いが、この番組は再度消費を盛んにし、国力を高めようという意図で企画された場だ。
草食系の系譜を深掘りして、繊細な感覚/文化の方向には進みそうにないので、TVを離れた。
身近な出来事・身体・感性に敏感な草食系は、「もののあわれ・もののケ」の系列であり、「あっぱれ・ハレ」との対極にある。
草食系では、論理や物語のような展開ではなく、身体の内外に共鳴し、呼吸しているような感じではないか?
つぶやきは、内に語りながら外に語る。
「空気」を読む、読まないというコトバがある。
『「マスメディアの「構造」と「空気」』柴山佐利 編著にて、最近のお笑い番組などの例をとり、「問いかけと問い直しのメディア論」が書かれている。
マスメディアは’メディアのメディアとして、番組内でも番組相互・局、媒体相互でも、論理ではなく、問いかけ・問い直しによって「空気」を作り続けているとのこと。
山本七平が「空気」を書いたのは、日本軍・日本国民の大東亜戦争突入や、オイルショックの庶民の買いあさり、公害・環境問題の宗教化などにおける日本人の行動・決断方式が続いていることを明らかにしたかったからだ。
「空気」に「水」を注すのもまた、その「空気」が支える、その場の既存勢力。週末の政治・時事番組のような「空気」抜き。’つぶやき’もまた、その場を設定した主体を前提にし、反撃を受けない距離を保ちながら、社会化されてゆく。
ニコニコ動画の身体的なコミュニケーション・メディアも、その動画画面が映しだしている場に対するテロップで疑似同期につぶやかれる。その話題がマスメディアで流されたものや、ネット上のランキングというマスに呼応していれば、つぶやきは、マスメディアを補強するものになる。ツイッター自体に、良し悪しはない。どのような場面が設定され、どのように読まれているかである。事業仕分けの中継にツイッターがつぶやいても、その仕分けられる事業の検討されている内容を知らなければ、野次馬の雑音であり、知っている人であれば、多くの気付きに繋がるだろう。内容理解もTVのワイド番組でスキャンダラスに感情を込めて叫ばれた程度であれば、ネタの一つとなる。そのネタが本気にふくらむ方向の確率をあげたいのは、マスメディアのスポンサーの意志でもある。どっちに転んでも、話題が増え、市場相場が上下すれば、利ざやを稼ぐ資本家には都合がいい。小資本家の右往左往も吸収して、相場を作れる立場にいるのは誰かいるのか、それとも誰もが資本への欲望に振り回されているのかは、考え方しだい。
<人は、論理的説得では心的態度を変えない。
特に画像、映像、言葉の映像化による対象の臨在感的把握が絶対化される日本においては、それは不可能と言ってよい。>
山本七平著『「空気」の研究』から
天皇の身影、原爆雲とヒロシマドーム、’平和’・’民主’・'国家’などが、絶対視されてきた日本国民の決断は、
その場の「空気」に縛られてきた。
自然や儒教的な畏敬心をうしなった日本人は、西欧のように宗教と科学のバランスもなく、その場の臨在感的な判断=「空気」を読んで行動する。
内に語るコトバだけでは、個人の言葉を越えず、その場の空気に流されるか、水を差して後戻りをして、未知への軸となりきらない。
残るコトバは、「もののあはれ」。
わかっていても変わらないことこそ、「いと、をかし」
やはり、極東の離れ島、地勢的な隔たりに守られ、南北に長く、海流も複雑で島も山も多く、変化/楽しみには事欠かない。
外来コトバをつぶやいていても、この外側にでて、大局からは語れない処のようだ。
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