映画『しあわせ』
監督、音楽は、『男と女』と同じクロード・ルルーシュ、フランシス・レイ、
大人の恋愛ロードムービー。
映画は、舞台上の映像スクリーンを出入るする男、観客として見つめる女のシーンで始まり、それぞれの過去の回想の断片が、ロードムービーとして、さまざまな場所、美しい映像、肌触りの良い音楽でつながれてゆく。
ストーリーは、ダンス・パートナーでもあった夫の死後、
息子とともに親しくなった画家をも事故で失ったダンサーが、
息子の遺品であるビデオカメラで、息子にみせたかったところの撮影旅行に出かける。そのビデオカメラの入ったバッグが盗難にあい、それを買い取った役者が、ビデオに映る女を追いかける。
ビデオカメラを買いなおし、旅もなすべき事を終えて死に向かうが、
テープだけを海に流し、実家に戻る。
そこに、映像に恋し、追いかけ続けてきた役者がたどりつき、結ばれ、
その映像と現実とが一緒になるシーンとして、始まりの舞台に戻ってFINE.
撮影すること・撮影された映像を観ることを通じて、
現在に至る時間に、二人の記憶と関わり合いが織り込まれ、
印象が深まり、心の傷が塗り替えられてゆく。
その過去の忘れ方・互いの近づき方には、
ビデオ・カメラ、テープ、映像と、モノと映像が関わり合い続ける。
ラストシーン、舞台役者が演じる舞台の映像スクリーン上から
ビデオカメラで客席を撮影すると、ダンサーは演じない観客として、
役者の恋心の眼差しの対象としてそのスクリーンに映され、
ダンサーが困惑し、見つめ返して、映画は終わる。
劇中スクリーンは、劇出演者ースクリーン出演者ー観客 という関係
映像は、撮る人-撮られる人-撮られた映像に加え、
-観る人(撮る人+撮られた人+観る人)
×撮る時刻・編集される時間の関係・観る時刻 が加わる。
役者もダンサーも舞台で演じる者であり、
日常もまた現実と虚構の重なりでもある。
引きずり・忘れられないことを抱える大人が、
’映像’という現代の眼差しと記憶のメディアによって
過去を清算し、また自身の気持ちをまとめてゆく、
ラブ・ストーリーなのだ。
人の記憶の解体も再構築も、常に分かち合う相手との関係によりなされる。
確か、あの映画『男と女』も、まず忘れることから始まっていたような・・・
映画『アマチュア』、リアルとメディアの逆転、映像の魔力
監督、音楽は、『男と女』と同じクロード・ルルーシュ、フランシス・レイ、
大人の恋愛ロードムービー。
映画は、舞台上の映像スクリーンを出入るする男、観客として見つめる女のシーンで始まり、それぞれの過去の回想の断片が、ロードムービーとして、さまざまな場所、美しい映像、肌触りの良い音楽でつながれてゆく。
ストーリーは、ダンス・パートナーでもあった夫の死後、
息子とともに親しくなった画家をも事故で失ったダンサーが、
息子の遺品であるビデオカメラで、息子にみせたかったところの撮影旅行に出かける。そのビデオカメラの入ったバッグが盗難にあい、それを買い取った役者が、ビデオに映る女を追いかける。
ビデオカメラを買いなおし、旅もなすべき事を終えて死に向かうが、
テープだけを海に流し、実家に戻る。
そこに、映像に恋し、追いかけ続けてきた役者がたどりつき、結ばれ、
その映像と現実とが一緒になるシーンとして、始まりの舞台に戻ってFINE.
撮影すること・撮影された映像を観ることを通じて、
現在に至る時間に、二人の記憶と関わり合いが織り込まれ、
印象が深まり、心の傷が塗り替えられてゆく。
その過去の忘れ方・互いの近づき方には、
ビデオ・カメラ、テープ、映像と、モノと映像が関わり合い続ける。
ラストシーン、舞台役者が演じる舞台の映像スクリーン上から
ビデオカメラで客席を撮影すると、ダンサーは演じない観客として、
役者の恋心の眼差しの対象としてそのスクリーンに映され、
ダンサーが困惑し、見つめ返して、映画は終わる。
劇中スクリーンは、劇出演者ースクリーン出演者ー観客 という関係
映像は、撮る人-撮られる人-撮られた映像に加え、
-観る人(撮る人+撮られた人+観る人)
×撮る時刻・編集される時間の関係・観る時刻 が加わる。
役者もダンサーも舞台で演じる者であり、
日常もまた現実と虚構の重なりでもある。
引きずり・忘れられないことを抱える大人が、
’映像’という現代の眼差しと記憶のメディアによって
過去を清算し、また自身の気持ちをまとめてゆく、
ラブ・ストーリーなのだ。
人の記憶の解体も再構築も、常に分かち合う相手との関係によりなされる。
確か、あの映画『男と女』も、まず忘れることから始まっていたような・・・
映画『アマチュア』、リアルとメディアの逆転、映像の魔力
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