読んでいた文庫本は納戸の奥、写真は、復刻版で『感情装飾』、初期の35編が入っています。
有名な『雪国』の出だし「トンネルを抜けると、そこは雪だった」のように、近代個人意識の主語はなく、情況の中のたまゆらの光景を感性の小片で、集めたものです。
『日本のコード』小林修一著は、この主語無しを、日本の風土で、日本語を母国語に育った日本人のレトリックと証します。
奈良時代の漢文・漢字、明治以後の欧州語、敗戦後の米語と、
カタカナ・ひらがな・ローマ字・アスキー文字、、、
世界から身の回り・心身まで、形・意・音に写して、
組み合わせ・類推・近接なレトリックで、重層化してきた日本語には、
共感できるウチと違和のソトの意識以上があったのか?
西欧のルネッサンスを経ず、
主体と対象という分離を仕切れず、
意味するモノと意味されるモノの区別がつきにくい共感覚が、
今、アナログがデジタルに、デジタルが深化・繋がっての環情報世界を、
心地よく感じているのではと。
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