中元さんの写真家の個展で語り合っていて、私も気がついたこと。
オブジェということばがあるけど、日本語にしたら対象、或いはコト。
そして相手。人・モノ・自然、その間で起こっていることと自身との関わりの
手がかりを、言葉・音・身振りにし、図や記号や文字、そして写真・音・映像で残す。
感じたことが溢れて、身体の外に出してしまわないと、詰まってしまうし。
そして、他の人の対象として、自律して何か喚起し続けることができれば、作品となる。
その場を離れて表現されたものだけが孤立しても、何か喚起し続けることは作品。
舞台もイベントも身体中に何らかの記憶合金みたいなモノを残していて、
思い起こされる瞬間が、繰り返されるなら作品。
その場で喚起し合うのなら、日常のコミュニケーション。
インスタレーションも身体記憶になれば作品。
他人の言葉やランキングや価格や知名度など、身体外の手がかりが伴うとコトが複雑になる。
作品が感性を喚起するように、
他人の欲望は、私の欲望を喚起して、感性を変形する。
すると、今、目の前の対象と交歓している中で、きらめくことに気づけなくなって。
四季のはっきりしている日本の風土に、形・音・表記で多重な日本語を手がかりに関わると、微妙な差異を楽しんで月日がたって、年が巡る。
身体の動き・感情の動き・相手との呼吸・・・・
その間で、痕跡を写す道具が身近になって、
誰もが書き取る道具から、写す道具を見にまとい、すぐ送り・広める時代。
より、カメラの性能が高くなり、より簡単になるほどに、
対象と自身の関わり方が、写り込む。
・・・・なんちゃって
(よし、これはコミュニケーション・メディアのカテゴリーに)
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