ワンセグでの放送・携帯連携モデル を、このTBS・松下電器で見せてもらった。
TBSと松下電器、ワンセグで放送・携帯連携モデルを共同で試行サービス
また、PDA-PCからTVへの流れも Mobile Centorino と Vivi のCPUから見えてきた。インテル Viivが日本でお披露目、ハイデフに積極投資へ
メディア全体状況から見ると、
視聴者は、日本人が平均4時間ほど視聴するTVの番組からの情報に刺激され、
携帯でおしゃべり・メールをし、Webに切り替え検索サイト・RSSリーダーへと浮遊することになる。
広告・広報源は、やはりTV番組となり、街を歩いても、車や電車にのっても、
ワンセグがついてくる。
デジタル・キャスティング、ダウンロードされるハードディスクなどは、
新聞・雑誌・チラシなどの非同期性・携帯性を可能にする。
コミュニケートするのが人間とすれば、日本9500万台がもつ携帯、
大画面の家庭モニターが、24時間視野シェアを奪ってゆく。
4マスの最大シェアであるTVの広告・広報活動が、
主要なメッセージをリードする。
お祭り社会の日本では、歌や踊り・瓦版みたいに、
みんなでワイワイされるものを真実にすることが身体に染み付いている。
売れているものがいいという市場社会には良くなじむけど、
自分の意志を守りきって、発言・行動し続ける西洋近代的個人は、未完成。
日本のネット上の掲示板・ブログ・・・・も、メジャーな情報の焼き直しか、
同じ境遇・心情のグループ内の毛づくろいみたいになり勝ちなのだ。
ニュースこそ、公共社会のうわさ話、バズであり、
ドラマもバラエティもスポーツ番組も、
”メジャーメディア”、”有名人”がパーミッションしている
生活感覚や気分を映し、伝播し、視聴率・反応回路で循環する。
ライター、クリエーター、デザイナーは、
受け入れられそうな差異感の持ち主が売れる大衆市場の商品づくりとなり、
意識する・しないに関わらず、私達の感じ方・表現の仕方は似てきて、
バタフライ・エフェクトのようにグループ内感染からブレイクをする。
記憶やコトバをメールや写真・音声化すればするほど、
繰り返される、はやり言葉・似通った感覚の共有へむかう。
ちょうど、化粧・ファッションが
雑誌メディアにみるカリスマ・モデルのパターン化とその組み合わせであり、
そのビミョーさを、かぎ分けることでの、仲間作りの境界ように。
私たちは、仕草・表情・声を凍らせて、
化粧・衣装・小物などで語り、
場所で縄張りをつくり、
自家用空間を所有する。
モードも市場も同じようで、
ビジネスはタイミングとなり、その場・その時を争う。
あらためてマクルーハンを出してくるまでもなく、TVは、
意識のまえに視覚・聴覚で共感・共振してしまうもので、
判断・自己選択を要請されないメディアだからこそ、居心地がよい。
個性あふれる「コンテンツ」は、社会的にどんどん蓄積されてゆくのだし、
ミッキーマウスの著作権が延長されたように、
多くの人が見たものが市場に載り・尊重され・真実となり、
過去を未来送りを続ける。
その活動の集積・積分は、
量的な統計のようであり、未来は過去の重層なのであり、
弁証的に発展するのではなく、生命の神秘を繰り返し重ねてゆくのだから、
高齢社会であることこそ豊かな社会なのだ。
ITがパーソナルな自由を支え、個人・地域社会を支える道具だと
単純に信じていると、実はより巨大化するメディア市場基盤という
社会システムのまな板の上に載っていることが見えなくなる。
しかし、そのまな板の上こそ、生存を超えた人間ゆえの領域だとすれば、
自分の意志でその舞台を歩くのか、拒絶して、淵で隠棲するのか?
日本では、情報的地方はすでに無く、
これからは、意志でつくる軌跡の地域性でしかない。
それが、地域に集積しようが、
奥の細道のように感性で旅しようが、
その人の嗜好性?志向性?
これで、いいのだ、続くのならば・・・
過去ログコミュニケーション・メディア・コミュニティ
行動空間概念図 1 古典的社会
行動空間概念図 2 近代的社会
行動空間概念図 3 ユビキタス社会
行動空間概念図 4 ユビキタス社会のコミュニケーション
行動空間概念図 5 自家用車空間と公共通行空間
TBSと松下電器、ワンセグで放送・携帯連携モデルを共同で試行サービス
また、PDA-PCからTVへの流れも Mobile Centorino と Vivi のCPUから見えてきた。インテル Viivが日本でお披露目、ハイデフに積極投資へ
メディア全体状況から見ると、
視聴者は、日本人が平均4時間ほど視聴するTVの番組からの情報に刺激され、
携帯でおしゃべり・メールをし、Webに切り替え検索サイト・RSSリーダーへと浮遊することになる。
広告・広報源は、やはりTV番組となり、街を歩いても、車や電車にのっても、
ワンセグがついてくる。
デジタル・キャスティング、ダウンロードされるハードディスクなどは、
新聞・雑誌・チラシなどの非同期性・携帯性を可能にする。
コミュニケートするのが人間とすれば、日本9500万台がもつ携帯、
大画面の家庭モニターが、24時間視野シェアを奪ってゆく。
4マスの最大シェアであるTVの広告・広報活動が、
主要なメッセージをリードする。
お祭り社会の日本では、歌や踊り・瓦版みたいに、
みんなでワイワイされるものを真実にすることが身体に染み付いている。
売れているものがいいという市場社会には良くなじむけど、
自分の意志を守りきって、発言・行動し続ける西洋近代的個人は、未完成。
日本のネット上の掲示板・ブログ・・・・も、メジャーな情報の焼き直しか、
同じ境遇・心情のグループ内の毛づくろいみたいになり勝ちなのだ。
ニュースこそ、公共社会のうわさ話、バズであり、
ドラマもバラエティもスポーツ番組も、
”メジャーメディア”、”有名人”がパーミッションしている
生活感覚や気分を映し、伝播し、視聴率・反応回路で循環する。
ライター、クリエーター、デザイナーは、
受け入れられそうな差異感の持ち主が売れる大衆市場の商品づくりとなり、
意識する・しないに関わらず、私達の感じ方・表現の仕方は似てきて、
バタフライ・エフェクトのようにグループ内感染からブレイクをする。
記憶やコトバをメールや写真・音声化すればするほど、
繰り返される、はやり言葉・似通った感覚の共有へむかう。
ちょうど、化粧・ファッションが
雑誌メディアにみるカリスマ・モデルのパターン化とその組み合わせであり、
そのビミョーさを、かぎ分けることでの、仲間作りの境界ように。
私たちは、仕草・表情・声を凍らせて、
化粧・衣装・小物などで語り、
場所で縄張りをつくり、
自家用空間を所有する。
モードも市場も同じようで、
ビジネスはタイミングとなり、その場・その時を争う。
あらためてマクルーハンを出してくるまでもなく、TVは、
意識のまえに視覚・聴覚で共感・共振してしまうもので、
判断・自己選択を要請されないメディアだからこそ、居心地がよい。
個性あふれる「コンテンツ」は、社会的にどんどん蓄積されてゆくのだし、
ミッキーマウスの著作権が延長されたように、
多くの人が見たものが市場に載り・尊重され・真実となり、
過去を未来送りを続ける。
その活動の集積・積分は、
量的な統計のようであり、未来は過去の重層なのであり、
弁証的に発展するのではなく、生命の神秘を繰り返し重ねてゆくのだから、
高齢社会であることこそ豊かな社会なのだ。
ITがパーソナルな自由を支え、個人・地域社会を支える道具だと
単純に信じていると、実はより巨大化するメディア市場基盤という
社会システムのまな板の上に載っていることが見えなくなる。
しかし、そのまな板の上こそ、生存を超えた人間ゆえの領域だとすれば、
自分の意志でその舞台を歩くのか、拒絶して、淵で隠棲するのか?
日本では、情報的地方はすでに無く、
これからは、意志でつくる軌跡の地域性でしかない。
それが、地域に集積しようが、
奥の細道のように感性で旅しようが、
その人の嗜好性?志向性?
これで、いいのだ、続くのならば・・・
過去ログコミュニケーション・メディア・コミュニティ
行動空間概念図 1 古典的社会
行動空間概念図 2 近代的社会
行動空間概念図 3 ユビキタス社会
行動空間概念図 4 ユビキタス社会のコミュニケーション
行動空間概念図 5 自家用車空間と公共通行空間
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