米語での思考原則が、'art'と'naiture'であり、日本の明治以後は、’文と理’だったということは分かる。米国人は、移民以来’米国人になる’が意識され、日本人は、開国以来’日本人だった’と意識されてきた。しかし、一八世紀半ばまでの世界最大のGDPは、清であった。ルネッサンスで、人と自然を分けた西欧文明が、新大陸で工業化をとげ、今、国際通貨による資本、ITネットワークによる情報基盤で、世界の基準となって、GDPの大半は、米国と西欧であり、中国・インドなどが工業化と情報化を同期させて拡大してきた。グローバルメディアをたどれば、アラビアの数字、交易のローマ字、IT言語としての米語がグローバルスタンダードで在ることは既成事実だ。しかし、言語論理が対象を細分化し、人の意識も言語も学問もそして、スキルも専門家・細分化して、人を市場機能で扱う時代になった。
グローバル化がなぜ必要か?それは、グローバル市場化を止められないときに、いやアジア・中南米・アフリカのグローバル化が進む情況で、差異を生み続けることが必要だからだ。この更なるグローバル化に言語や地域文化を越えて、差異を作りつづけるには、言語だけでなく、音や図・写像・映像が有効だったことは、ラジオ・TV・ネットの動向で、一目瞭然。映画を作るよりも多額なショート・ムービーが刺激を総合化して作られている。ネット動画の拡散性は、ハリウッド映画を越えた。
だから、リベラルアーツの本質を問えば、それは、言語・文化の本質をも問いたくなる。
もう四半世紀前、慶応大学藤沢キャンパスの、環境情報学を前提とした、カリキュラムの再編を想い出す。
今まさに、人と自然という二元論を越え、アジア・アメリカ原住民・アフリカにも通じる、一元的な人間の感性のためのグローバル・メディアは、これからではないか? それは、アップルやアドビのクリエーティブからの次元を越えたものになるのでは。日本のコミック、アニメは、3Dなどへの即物主義には向かわなかった。科学・技術以上、統合的な感情に応えるグローバル・メディア・ツールは、それぞれのローカルで使えるかどうかが鍵だ。
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