渋谷音楽祭の手伝いをしていて、昔のライブ・コンサートやライブ・イベントを運営したころを思い出したのだが、続けられたきっかけは、MLへの日曜散文だったのかもしれない。
それは、ML:SEN(三遠南信熱意のネットワーク)の賑やかしのために、毎日曜日に送り続けた取り留めのない散文だった。
ちょっとした自己解放で、受け取る側には迷惑もかけたが、
(月曜日の朝、お仕事の始めに、長文の散文はキツイ!
携帯で受けているので、通信費・時間がかかる。はずしてくれ!)
SENを解散後も、個人的なBCCで”日曜散文”を続けて、
残っていただいていた方が80名ほど、
時々返信をもらって勇気づけられていたものだ。
今は、このブログに代えて、日曜散文は終えているが、
年賀状も年賀メールも出さない私の、
今までのお礼でもあり、元気でやっているよという挨拶でもあり、
何か私にできることがあったらヨロシクという、お願いでもあった。
もちろん、ブログで書きまとめるという自己整理・自己維持であり、
受け取って反応し・溜まったものを発散する自己セラピーでもあり、
自己紹介の代わり(よけい判らなくなりそうだけど)でもあった。
しかし、考えなおせばこれ、ある意味でホワイト・ノイズづくり、
つまり、散文→散種(デリダより)として、
セルフ・ノイズが社会のホワイト・ノイズに混ざってゆくことだったと気づく。
この散文は、書き散らすという自己内部の散逸と、
撒き散らすという自己周辺への発散とを重ねていた。
一方で、自分の内部ノイズに紐付けていく感じであり、
他方で、外部に関わってゆく手がかりであり、
読み返して、自分を発見できるし、
方向性を確かめる指標でもある。
しかし個人を離れ、ブログとして、RSS/メタデータつきデータとして
ネット上に発散し、クローリングされ、編集され続けると
これは闇に消えてゆくだけのものではなく、
ホワイト・ノイズとして、対象化されるもの、
つまり、メディア(デリダ的な意味で)としてのリアリティだと気づく。
まだ、リアルとバーチャルを融合させる社会的な行動様式は出来てはいないけど、
CGM( Consumer Generated Media )と云われるときのメディアは、
広告化、商品化されるコンテンツをさしているばかりではなく、この散種を指していいはずだ。
私たちは商品のConsume(消費・消耗)だけで生きているわけではない。
ライブ・コミュニケーションとは
シャノンの情報伝達理論のように発信者がコンテンツを受信者にむけて発信し、
その反応が応答しあうのではない。
またその総体とは、サイバネティックスのように、想定内の舵取りに終わるものではない。
ライブとは、その場その時を共有するという前提の中で、
更新され続けるメディア生成なのだ。
私たちは、都市化と工業化の果て、
社会性と世襲制という、場と歴史との繋がりを失いつつある。
セルフ・ノイズを自身の場と刻に発信し続け
自身の行動のなかで社会のホワイト・ノイズを編集できる情報社会基盤をつくることが、生と死を受け入れる手がかりだ。
情報社会では、このホワイト・ノイズがみんなの栄養、
これを分解・整理して消化する仕掛けづくりが、Web2.0なのだ。
ライブ・ステージやライブ・スポットとは、その氷山の一角、
渋谷音楽祭のブログ:エントリー・バンドのカテゴリーで、
ライブハウスやエントリーバンドにID・パスワードを渡して投稿してもらっているのは、
PGM (Player Generated Media)のつもりだ。
映画『天井桟敷の人々』から、公共性の喪失を考える
『公共性の喪失』
ライブ、音楽と生活のひろがり
ライブ・コンサートは、人の繋がりとネットワークが
ライブは、人の繋がりとネットワーク・サービスが
ライブ・ライフを支えたエージェント・PDA
それは、ML:SEN(三遠南信熱意のネットワーク)の賑やかしのために、毎日曜日に送り続けた取り留めのない散文だった。
ちょっとした自己解放で、受け取る側には迷惑もかけたが、
(月曜日の朝、お仕事の始めに、長文の散文はキツイ!
携帯で受けているので、通信費・時間がかかる。はずしてくれ!)
SENを解散後も、個人的なBCCで”日曜散文”を続けて、
残っていただいていた方が80名ほど、
時々返信をもらって勇気づけられていたものだ。
今は、このブログに代えて、日曜散文は終えているが、
年賀状も年賀メールも出さない私の、
今までのお礼でもあり、元気でやっているよという挨拶でもあり、
何か私にできることがあったらヨロシクという、お願いでもあった。
もちろん、ブログで書きまとめるという自己整理・自己維持であり、
受け取って反応し・溜まったものを発散する自己セラピーでもあり、
自己紹介の代わり(よけい判らなくなりそうだけど)でもあった。
しかし、考えなおせばこれ、ある意味でホワイト・ノイズづくり、
つまり、散文→散種(デリダより)として、
セルフ・ノイズが社会のホワイト・ノイズに混ざってゆくことだったと気づく。
この散文は、書き散らすという自己内部の散逸と、
撒き散らすという自己周辺への発散とを重ねていた。
一方で、自分の内部ノイズに紐付けていく感じであり、
他方で、外部に関わってゆく手がかりであり、
読み返して、自分を発見できるし、
方向性を確かめる指標でもある。
しかし個人を離れ、ブログとして、RSS/メタデータつきデータとして
ネット上に発散し、クローリングされ、編集され続けると
これは闇に消えてゆくだけのものではなく、
ホワイト・ノイズとして、対象化されるもの、
つまり、メディア(デリダ的な意味で)としてのリアリティだと気づく。
まだ、リアルとバーチャルを融合させる社会的な行動様式は出来てはいないけど、
CGM( Consumer Generated Media )と云われるときのメディアは、
広告化、商品化されるコンテンツをさしているばかりではなく、この散種を指していいはずだ。
私たちは商品のConsume(消費・消耗)だけで生きているわけではない。
ライブ・コミュニケーションとは
シャノンの情報伝達理論のように発信者がコンテンツを受信者にむけて発信し、
その反応が応答しあうのではない。
またその総体とは、サイバネティックスのように、想定内の舵取りに終わるものではない。
ライブとは、その場その時を共有するという前提の中で、
更新され続けるメディア生成なのだ。
私たちは、都市化と工業化の果て、
社会性と世襲制という、場と歴史との繋がりを失いつつある。
セルフ・ノイズを自身の場と刻に発信し続け
自身の行動のなかで社会のホワイト・ノイズを編集できる情報社会基盤をつくることが、生と死を受け入れる手がかりだ。
情報社会では、このホワイト・ノイズがみんなの栄養、
これを分解・整理して消化する仕掛けづくりが、Web2.0なのだ。
ライブ・ステージやライブ・スポットとは、その氷山の一角、
渋谷音楽祭のブログ:エントリー・バンドのカテゴリーで、
ライブハウスやエントリーバンドにID・パスワードを渡して投稿してもらっているのは、
PGM (Player Generated Media)のつもりだ。
映画『天井桟敷の人々』から、公共性の喪失を考える
『公共性の喪失』
ライブ、音楽と生活のひろがり
ライブ・コンサートは、人の繋がりとネットワークが
ライブは、人の繋がりとネットワーク・サービスが
ライブ・ライフを支えたエージェント・PDA
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