テロから暴動へ、
フランス暴動は、生存戦争が市場競合へと転化しきれない社会的なエントロピーが、ユビキタス社会化により顕在化している現象なのだろうか?
他山の石というよりは、
「蜘蛛の糸」芥川龍之介著の糸を上っているつもりの私から見ていると、社会に対する無力感だけが募る。
住宅と雇用の差別だとか、アフリカからの移民との民族の対立とか、キリスト教とイスラム教という宗教の対立とか
分析・理解しても何もできない、動けばまた歪を拡大してゆくだけとの無力感だ。
「文明の内なる衝突」大澤真幸著では、
9・11直後の印象を、語っている。
社会哲学における、コミュニタリアン、普遍的形式主義、ポストモダン・多文化主義の三すくみ構造が、
所詮西欧文化の上にあること。
原理主義であるキリスト教・イスラム教の構造分析による、近似と差異を述べ、
キリスト教の絶対的第三者の相対化による自己変革可能な精神構造を支えていることを示している。
そして、その罪の意識における対自と即自の分裂に対して、
恥の意識を通じた、対自と即自:能動性と受動性の循環を提起している。
これらと、その恥を、誇りと相対化した図を、自然宗教の構図として、図示してみた。
このアングロサクソン・モデルの自己変革力は、
フン族に追われたゲルマン民族の大移動、
さらに大陸から島国イングランドでの孤立から身に着けたものだろう。
英国の海洋国家化、
新大陸アメリカでの地球国家化へと、
言語(英語)、
法律(コモンロー)、
貨幣(通貨)による
カルチャー(集団としての問題解決法)を身につけ、
アングロサクソン型資本主義として世界を覆う力
<「アングロサクソン・モデルの本質」渡部亮著より>
の源泉は、
自己変革可能な精神構造だったのだろう。
このアングロサクソン・モデルの問題は、究極の基準が、資本=通貨になってしまう普遍性であり、
その通貨の普遍性をセキュリティ・世界規模の警察力によって保持する体性である。
「人権」・「安心と安全」とは、このような構造の中での言葉でもある。
フランスの、いや日本での身近な人々の暴発・犯罪を見る視点は、
蜘蛛の糸にぶら下がっているこの身体にある。
手を離せば落ち、上は見るけど下は見えない。
それぞれの糸にぶら下がって、孤立して、恥と誇りの視線が交差する。
そう、その眼差しの交差を繋ぐ手掛りは、共通の意識。
繰り返し・繰り返し、互いに確かめ合い、身体に刻み付けた意識を
育てることができれば、
それは、通貨のような強度を持つことができるだろう。
共通の意識は、自己が相対化し、共通の課題もまたファンクションの分担として共有できる。
共通の意識は、表現と応答と記録の繰り返しで育まれる、対自・即自のコミュニケーションとメディアの問題なのだ。
対自と即自が分解すれば、その方向は、主体を離れ、株主資本の最大化へと抽象化される。
コミュニケーションとメディアの相関モデル ”ファンクショナリー”な社会?
繰り返せば、自身の内と外へのコミュニケーションとメディアの密着が課題となり、
舞台はグローバルの中のローカルなところにある。
ローカルなファンクショナリーな課題を、ローカルに共通化することが常に抜け落ちる。
グローバル・メディアでは、瞬時のスキャンダルで一杯だし、グローバル・コミュニケーションは、検索の地引網ではすくえない。
グローバルな共通話題は、天気予報と金融マーケット情報なのだ。
ベトナムからも、フランスからも遠く離れて
自身を取りまとめてみた。
フランス暴動は、生存戦争が市場競合へと転化しきれない社会的なエントロピーが、ユビキタス社会化により顕在化している現象なのだろうか?
他山の石というよりは、
「蜘蛛の糸」芥川龍之介著の糸を上っているつもりの私から見ていると、社会に対する無力感だけが募る。
住宅と雇用の差別だとか、アフリカからの移民との民族の対立とか、キリスト教とイスラム教という宗教の対立とか
分析・理解しても何もできない、動けばまた歪を拡大してゆくだけとの無力感だ。
「文明の内なる衝突」大澤真幸著では、
9・11直後の印象を、語っている。
社会哲学における、コミュニタリアン、普遍的形式主義、ポストモダン・多文化主義の三すくみ構造が、
所詮西欧文化の上にあること。
原理主義であるキリスト教・イスラム教の構造分析による、近似と差異を述べ、
キリスト教の絶対的第三者の相対化による自己変革可能な精神構造を支えていることを示している。
そして、その罪の意識における対自と即自の分裂に対して、
恥の意識を通じた、対自と即自:能動性と受動性の循環を提起している。
これらと、その恥を、誇りと相対化した図を、自然宗教の構図として、図示してみた。
このアングロサクソン・モデルの自己変革力は、
フン族に追われたゲルマン民族の大移動、
さらに大陸から島国イングランドでの孤立から身に着けたものだろう。
英国の海洋国家化、
新大陸アメリカでの地球国家化へと、
言語(英語)、
法律(コモンロー)、
貨幣(通貨)による
カルチャー(集団としての問題解決法)を身につけ、
アングロサクソン型資本主義として世界を覆う力
<「アングロサクソン・モデルの本質」渡部亮著より>
の源泉は、
自己変革可能な精神構造だったのだろう。
このアングロサクソン・モデルの問題は、究極の基準が、資本=通貨になってしまう普遍性であり、
その通貨の普遍性をセキュリティ・世界規模の警察力によって保持する体性である。
「人権」・「安心と安全」とは、このような構造の中での言葉でもある。
フランスの、いや日本での身近な人々の暴発・犯罪を見る視点は、
蜘蛛の糸にぶら下がっているこの身体にある。
手を離せば落ち、上は見るけど下は見えない。
それぞれの糸にぶら下がって、孤立して、恥と誇りの視線が交差する。
そう、その眼差しの交差を繋ぐ手掛りは、共通の意識。
繰り返し・繰り返し、互いに確かめ合い、身体に刻み付けた意識を
育てることができれば、
それは、通貨のような強度を持つことができるだろう。
共通の意識は、自己が相対化し、共通の課題もまたファンクションの分担として共有できる。
共通の意識は、表現と応答と記録の繰り返しで育まれる、対自・即自のコミュニケーションとメディアの問題なのだ。
対自と即自が分解すれば、その方向は、主体を離れ、株主資本の最大化へと抽象化される。
コミュニケーションとメディアの相関モデル ”ファンクショナリー”な社会?
繰り返せば、自身の内と外へのコミュニケーションとメディアの密着が課題となり、
舞台はグローバルの中のローカルなところにある。
ローカルなファンクショナリーな課題を、ローカルに共通化することが常に抜け落ちる。
グローバル・メディアでは、瞬時のスキャンダルで一杯だし、グローバル・コミュニケーションは、検索の地引網ではすくえない。
グローバルな共通話題は、天気予報と金融マーケット情報なのだ。
ベトナムからも、フランスからも遠く離れて
自身を取りまとめてみた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます