動画共有サイト「YouTube」、日本から212万人が訪問--利用率は米国内に匹敵 ニューズフロント
<日本のユーザーのYouTubeへのアクセスは2005年12月から急増し、2006年3月には212万人に達した。日本国内での利用率は5.2%と、米国内での利用率5.4%に近づいている。また日本のユーザー1人あたりの平均訪問頻度は3.2回、利用時間は約33分と、いずれも米国ユーザーを上回り、「日本のユーザーの熱心な利用状況が浮かび上がった」(ネットレイティングス)という。>
いよいよ、映像が音声を離れて一人歩きを始めた。
その兆候はいろいろあった。
TV広告が映画の1シーンを、
まったく違う会話にすり替えて流している。
たとえば「ローマの休日」の生保会社のCFなどだし、
乱闘シーンなどを別のコンテクストにすり替えたCFも続いた。
写真から映画が生まれた時は、
映像には音声がなく、テロップを付け加えて意味づけをしていた。
トーキーになり、カラー化されることで、
映像と現実の相似性が信じられる時代が続いた。
TVという同時性のメディアでは、
映像こそ現実の全てを、同時に伝えるという
神話をつくった。
米国のYouTube映像への日本からのアクセスの多さは、
米語抜きでの、映像だけの面白さに、
コメントを付け楽しみあう世界。
それは、ドラマなりアニメなり、すべてストーリーからキャスティング、
各シーンの映像などなど、
親や友達との対話以上に深くかかわって育ってきた世代のお楽しみなのだ。
音楽を言語圏を超えて楽しんできたように、
映像も、言葉を超えた共通の感性で受け入れられるのだろうか?
喜怒哀楽の表現は、それほど違いがないが、
しぐさ、挨拶となると生活文化背景の違いは大きい。
音楽では、平均率や速度などの共通コードができてきたが、
映像では、どんなコードができるのだろう。
神話や物語のバリエーション、
撮影技術や合成技術、あるいは本物らしさの大仕掛け、
そんな大雑把な、動物的な噂話になるのだろうか?
それとも感情の載せあい、共感を求め合う毛づくろいだろうか?
自分たちだけ判るビミョーな違いでの囲い込みだろうか?
いやいや、映像世代らしい、新鮮な表現者たちが
生まれてくるだろう。
それは、画像や映像に囲まれた感性を共有している社会故の可能性なのだ。
「You Tube」のアクセス量の多がその証ではないか?
生活の中のブロードバンド・コミュニケーション
コミュニケーション・メディアのモデル思考
方向と距離
コミュニケーションのはじまり
社会関係のはじまり
象徴のはじまり
情報のはじまり情報の外部化情報の自律情報からモノの規定
言葉を失うとき、映像言語・・・
ポスト黙示録的文化の中で
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます