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『ナショナリズムの由来 』 大澤真幸 著読後→資本主義と環境主義、’地域なき地域主義’の出口へ

2007-12-12 19:54:20 | 基本的なコト
『ナショナリズムの由来 』 大澤真幸 著

ナショナリズムは、国民が生成される古典的時代、国民国家同士が戦った第一次・第二次大戦時代、その後のアジア・アフリカ植民地の独立運動時代に分けられた。それは、政治と領土、社会を動かす要素と地理が一致していた時代の意識であるはずだった。
労働者が国を超え連帯しようとしたインターナショナリズムは、第一次大戦に入ろうとすると国ごとに分裂し、
第二次大戦後の自由主義・共産主義の対立も、双方が資本主義という原理上での競合の一つだったことを現した。
しかし、冷戦が終わり、通信・情報化が進んだ90年代、政治と領土を超えたナショナリズムが広がっている現実はなぜか?
大澤真幸氏は『ナショナリズムの由来』において、詳細に記している。

国民が持った意識は、国民の言葉、俗語、小説の系譜から語られる。
1対1の書簡スタイルから、私小説、彼・彼女を俯瞰的にみる近代小説の構造が、
国民意識を醸成したことを、多くの引用において語る。

国民が行動し、戦った原理を、広義の資本原理、経済的な規定を超えた一般的な社会システムとして、
内部メンバーがより包括的な経験可能領域を指向して展開する競争によって定義する。
西欧を発展させてきた、自己否定と真理の探究は、科学的実証主義で、技術の発展と普及を支えてきた。
交通・運輸から通信・情報の発展は、空間と時間をより拡張して使えるようになった。
そして、グローバル社会化は、時間の問題として、
領土で隔てられる国家同士も、世界に関わる企業も、個人もまた、
より包括的な経験可能領域を指向して展開する競合の場、「帝国」の構成員となってゆくはずだった。

しかし90年代から、領土を越えた民族・宗教・言語などでの連帯活動が広がった。
これが、ナショナリズムの終わりの後のナショナリズムとされる。

多文化主義も、他の民族・宗教・地域の生活文化を認めるその境界・区別を解消はしない。
実践のレベルでは、個別的な経験領域を適用してゆくしかないのだから。
その結果、人種なき人種主義、
文化的な差異が人種と同等に、本質的で持続的な差異として扱われる現象や、
「享楽の盗み」として、
景気のよいときにはただ乗り論、悪いときには機会を奪う人として’外人’を扱う心理が広がる。

そして、このナショナリズムの発露の中では、その民族性・宗教性・言語などの生活文化が、普遍でないとは分ってはいる。
事例のカリブや在日朝鮮人の表現できないナショナリズムが、紹介される。
それでは表現できないことが、その底にあることが、境界事例ではなく、
一般的な人、大衆もまた同様だと連想させる。

グローバリズムとナショナリズム
普遍的なことと特殊的なことが同居していることを、筆者は語りなおし、
資本社会での経験可能領域での絶対性欠如が、
理想的な共和制から生まれたファシズムの絶対性への希求へと現れる危険にも触れている。

<所感>
大澤真幸氏は、『行為の代数学スペンサ-=ブラウンから社会システム論へ』を、グローバリズムとナショナリズム、普遍性と個別性の歪に適用しきった感じがする。
「行為の代数学」フラクタルな自己組織化の基点として

経験可能領域と資本主義の親和性は、
『社会システム理論』 ニコラス・ルーマン を深く連想した。ルーマンは、西欧社会の一員として自己組織化するシステム群と’愛’と’芸術’という地平の外への人間存在を語っているが。
社会システム論のルーマンによる”愛”、生の動機づけ、
社会システム理論でのマルチチュード

普遍的なことと特殊的なことの接合こそ、人間の器質性ではないのか?
生存空間での、主体の二重化による、刺激から意識への流れ
行為・コミュニケーション・メディア・マスメディア (1/3)

意識されるものがグローバル化するほどに、意識できない器質性の違いが浮き出てくる。
生活する空間での対象との相互作用が蓄積した結果、個人を超えて意識される共通項。
大衆は、地域固有の文化から切り離されてできたものだとハンナ・アーレントは云うが、
個別分野をこえて共有された生活感覚は、それを記録し・共有できる手がかりをもてば顕在化する。

’人種なき人種主義’の他方に、’地域なき地域主義’も、ありそうだ。
ナショナリズムからイスム(-ism)をはずし、主義・運動などのニュアンスをとった'nation’となる。
その意味を英語に求めれば、
nation=a community of people of mainly common descent,history,language,etc.,forming a State or inhabiting a territory.
(Concise Oxford Dictionary より)
これは、単数の'community'であり、単数で大文字の’状態’つまり’統治体’であるか、’囲われた地域’である。資本流通が統治体を開き、交通・通信・情報が、地域の囲いを取り去っている現代でも、結果として’地域’で示される'community’が残り続ける。
それは、住む人・働く人ばかりでなく、訪れる人も共感される無形のこと。
この単数の特殊性を、地域を越えて共有=楽しみあう単数のcommunityを、
持ち合うことが、抽象的なグローバル化よりも現実的になる。

工業化・都市化により地域との繋がりを失った大衆が、
地域なき地域を共有することになる。

そして、これは、資本原理による経験可能領域の拡大を、
空間から身体の周りに偏在させることになる。
意識という頭脳に偏った交流から、身体感覚の交換を可能にする地域を共有することは、より深い感情を呼び起こすことができる。身体感覚の交換は、一方通行のエンターテイメントにさらされ自閉してきた身体を解放する。

資本主義の後半における非物質的労働は、知的・象徴的労働と感情労働と、大澤氏は記している。感情労働が地域内にとどまるほうが差異を大きくできるのならの、個別の経験可能領域の拡大は、地域内に留まりやすい。

地域内に留まりやすいことは、環境変化を少なくすることにつながる。
ここで、資本原則と環境原則が、出会う。


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1 コメント

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経験共有可能領域 (バカボンの叔父)
2011-02-23 05:06:00
「経験可能領域」が個人から語られた空間的な言葉であるとすれば、「経験共有可能領域」と記せば、複数の人から語られたcommunityということになる。
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