昨年11月、初めて身延山の祖廟輪番奉仕に参加させていただきました。
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(法喜堂入口)
日蓮聖人の御廟を、六老僧が交代で護持したことに始まる輪番奉仕、いつか参加したいと思っていましたが、以前から親しくさせていただいている内船寺さん(南部町)の奉仕団に混ぜてもらい(檀家じゃないのにスミマセン…)、念願が叶いました!
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(久遠寺御真骨堂)
御真骨堂参拝や御廟常唱殿の清掃など、初体験のことばかり。
あっという間に時間は過ぎ、午後2時頃お開きとなりました。
内船寺さん、本当にありがとうございました!
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その晩は、三門右側にある松井坊に参籠させていただきました。
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落ち着きのある玄関です。
宿坊体験を推進する「お寺ステイ」の拠点でもあるんですね!
身延山内では他に、端場坊、志摩房が該当します。
お部屋はこんな感じです。
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手入れの行き届いた和風旅館って雰囲気です。
小雨交じりの肌寒い日でしたが、こたつに入り、熱いお茶をいただいているうちに、心も体もほっこり。
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窓から見えるのは色づき始めた鷹取山。
左隣の建物は山本坊さんです。
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夕方、本堂の一画をお借りしてお勤めをしました。
本堂内は山を背にして須弥壇、内陣がありますが、裏山が迫っているせいでしょうか、外陣らしきエリアはなく、我々檀信徒は脇間に座るようなイメージです。わかります?法要の際は、お上人を真横から見る感じです。
わ~い!夕食の時間です。
「今日は特に寒いので」と、汁物を山梨名物・ほうとうにしてくださいました。
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いずれもめちゃくちゃ美味!
奥様ありがとうございました。
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お腹は満たされ、熱めのお風呂に肩まで浸かれば、自然とまぶたも閉じてきます。
おやすみなさい…
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最近、久遠寺の朝勤は年間通じ、5時半に統一されました。
松井坊を5時前に出れば、十分間に合います。
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朝勤から帰ると、心づくしの朝食。
なんて幸せなんだ!
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実は7年前、三門を起点に昔の七面山参詣道を往復した際にも、松井坊に前泊させていただきましたが、おもてなしのクオリティは当時から変わらず、好印象でした。
本当に良い宿坊だと思います。
それではそろそろ松井坊の由緒を探ってゆきましょう。
松井坊、正確には「長松閣松井坊」だそうです。
山号寺号、両方に「松」の字が入っています。
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(松井坊から三門を望む)
境内に松、ありますね。
昔はもっと大きい松があったのかな?
そうそう、松といえば、お部屋の床の間に、こんな掛け軸がありました。
調べると、この漢詩は宋の時代の詩人・陶淵明による「四時の詩」、四季の風景を詠んだものだとわかりました。
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最後の五文字は「冬嶺秀孤松」。
冬に山を眺めると、他の木が葉を落としている中、松だけが青々と際立っている、そんな様子を表現しています。
戦争、災害、氾濫する情報…大変な世に生きる私達ですが、とにかく惑わされず、流されず、松のように生きなさい、と教えてくれているように感じます。
「長松閣松井坊」にも、そんな願いが込められているのかもしれません。
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松井坊歴代お上人の御廟は、本堂左側にあります。
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墓誌には36世までのお上人の法名が刻まれています。
長きにわたって松井坊、そして身延山久遠寺を護持してくださった歴代に、心から感謝致します。
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墓誌の筆頭、開基のところには「日長尊者」とあります。
日長尊者とは、波木井(南部)実長公の孫にあたる波木井長氏(ながうじ)公のことです。
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(菩提梯下に祀られる南部六郎実長公銅像)
ここで身延山開基・波木井実長公の子について、おさらいしましょう。
実継(長男:実長の嫡家、根城南部氏)→長継→師行
実氏(二男:加倉井南部氏→常陸の湯)
三郎(三男:佐賀武雄の舩原を拠点に元寇警備に尽力)
長義(四男:波木井郷の地頭)→長氏
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(波木井南部氏の居城があった波木井山)
そもそも波木井南部氏は、波木井実長公の長男(実継)の家系が当主を務めていました。
ところが時代は南北朝の動乱期、特に4代師行公は奥州の平定に力を注いだため、甲州の本拠地を守るのは、長義公の子・長氏公の役目となっていったと考えられます。
一方、日蓮聖人ご入滅後の身延山は、
2世日向上人(六老僧)
3世日進上人(中老僧)
4世日善上人(九老僧)
と、しばらくは日蓮聖人の直弟子、孫弟子によって護持されていたことは、よく知られています。
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(身延山御草庵跡)
しかし、宗祖ご入滅から半世紀も過ぎれば、直弟子、孫弟子もいなくなります。
すると身延山護持の柱は、おのずと大檀那である波木井長氏公に委ねられていったと想像できます。
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(身延山歴代墓所:手前が日向上人墓、その右奥に5~8世墓)
実際、身延山5世からは波木井氏の縁者が歴代を占めています。
5世日台上人(長氏の二男、鏡円坊開創)
6世日院上人(日台上人の弟?)
7世日叡上人(波木井一族)
8世日億上人(波木井郷の人)
身延山史には、長氏公について
「祖父(実長)の蠋(ちょく:とどまる)を紹(つ)いで身延に荷擔(かたん:背負う)し、志を竭(つく)して力を振るうこと 実長在世の如し」
とあります。
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(身延山御草庵跡)
日蓮聖人というカリスマを失くして数十年、身延山は異体同心でなくなりつつある。
ならば自分に近いベクトルを持ったお上人を歴代に据え、身延山を安定させようと尽力したのでしょう。
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(松井坊本堂)
長氏公は晩年、自らも出家して日長と号し、貞治3(1364)年、御廟所奉仕の念から身延山中谷に一坊を開創します。
松井坊のルーツです。
こちらは松井坊の坊号塔
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表側は青い文字で「松井坊」と刻まれていますが
裏側を見ると、妙見様のお像が安置されている旨が刻まれています。
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調べるとこのお像は、もともと波木井長氏公の持仏で、一説には伝教大師最澄上人ご親刻と伝わるとか。
松井坊を開創したときに長氏公が安置したのでしょう。
ここで一つ疑問が生じました。
波木井(南部)氏と妙見様、どんな関係があるんだろう?
僕がまず連想したのは、身延山梅平にある鏡円坊
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鏡円坊は、波木井実長公の屋敷跡に、身延山5世日台上人(波木井長氏の二男)が創建したお寺です。
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本堂の大棟に、九曜紋が掲げられていたのを覚えています。
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また、7年前に訪れた青森県八戸市の根城
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(八戸市博物館:銅像は根城南部氏4代 南部師行)
付近には八戸市博物館がありますが、ここには奥州南部氏の展示資料が沢山ありました。
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(八戸市博物館の展示資料より引用)
南部氏の家紋は「向かい鶴」ですが、よく見て下さい。
鶴の胸あたりに、やはり九曜紋、ありますよね?!
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(根城主殿に展示されていた唐櫃)
九曜紋は北辰妙見の印、敢えて家紋に入れているほどですから、そこには大きな意味があるのでしょう。
一方、甲斐国は古くから馬の産地として知られ、波木井(南部)一族も代々、牧場を経営して、良馬を育てていたようです。
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(身延山山頂からの眺め)
日蓮聖人のご遺文にも、こんな記述があります。
「此の身延の沢と申す処は 甲斐国飯井野御牧三箇郷の内 波木井の郷の…」
(松野殿女房御返事)
この「御牧(みまき)」こそ、波木井(南部)一族の牧場だといわれています。
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(青森県八戸市の種差海岸)
波木井実長公の父・光行は、源頼朝の奥州討伐で戦功を挙げ、陸奥国糠部地方(青森県、岩手県の一部)を与えられました。
以来、甲州、奥州両方の南部地方を、一族で手分けして領したのです。
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(青森県尻屋崎の寒立馬:南部馬の特徴がよく残っている)
奥州南部地方は八甲田山の火山灰地、農耕には適していませんが、雪が少なく広大な草原は馬の飼育に最適でした。
一族は甲斐での経験を生かし、こちらでも馬産を始めるのです。
妙見様は馬の神様ともいわれます。
古くは中央アジアの遊牧民族が、移動の際の目印にしたのでしょう、北極星や北斗七星を信仰対象としたのが始まりだそうです。
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(能勢妙見山境内の神馬銅像)
妙見様を祀る宗門寺院では、馬の像を見ることがしばしばあります。
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(南相馬市博物館に掲示されていたポスター)
また宗門とは直接関係ありませんが、相馬の野馬追いは、捕らえた野馬を妙見様に奉納する神事がルーツだそうです。
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(松井坊本堂の扁額)
南部一族は昔から馬産に関係の深かったわけで、ならば波木井長氏公が妙見様のお像を持仏にしていた、というのも納得できます。
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(池上への旅:堀内天領画集「日蓮聖人の生涯」より引用)
あ、そうそう、弘安5(1282)年、身延山を下りて常陸の湯をめざす日蓮聖人がお乗りになったのは、波木井公から供された、気立ての良い栗鹿毛の馬でしたね。
妙見様に護られながら、病身のお祖師様を池上まで送られたのでしょう。
スミマセン、結構脱線しちゃいました!
松井坊の歴史に戻りましょう。
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江戸末期以降、松井坊は被災と復興を繰り返します。
慶応元(1865)年12月14日、昼四ツ半といいますから午前11時頃、中谷の坊から出た火は周辺を焼き尽くしました。
このとき三門(初代)も全焼しましたから、隣接する松井坊も類焼してしまいます。
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(慶応大火後の身延山:身延山久遠寺刊「身延山古寫眞帖」より引用)
廃仏毀釈など仏教に風当たりが強かった時代だと思いますが、信者さん達の支援が厚かったのでしょう、松井坊は間もなく再建されます。
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(松井坊の裏は急斜面、ほぼ真上に円台坊がある)
ところが大火から10年後の明治8(1875)年初夏、降り続く大雨で裏山が崩れ、再建されたばかりの伽藍は大破してしまいました。
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(明治15年の門前町:身延山久遠寺刊「身延山古寫眞帖」より引用)
明治20(1887)年3月4日の昼過ぎには、中町(門前町)から出火、200戸以上の町家とともに、仮仁王門(初代三門の代わりに再建された)と周辺の坊も類焼、松井坊も再び焼けてしまうのです。
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(松井坊から三門はこんなに近い!)
松井坊は三門の並びという立地、一見良さげに感じますが、歴史を辿れば、よくここまで復興してきたものだと、感心してしまいます。
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今、ふと思い出したのが、身延山山頂にある奥之院思親閣
休憩所や御札所の前に、大きな浄水槽があるんですが、御存じでしょうか?
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実は、思親閣の水道設備が整えられたのは昭和36(1961)年のこと、それまでは雨水が頼りだったといいますから、驚きです。
(ちなみに電気は昭和24(1949)年に通じてます。)
身延山史を調べると、この水問題に取り組んだのが当時の思親閣別当・松井坊36世の望月堯海上人でした。
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(寺平から身延山を望む)
麓の用水ダムから高圧ポンプで572mもの揚水を成功させ、山頂の水問題は一気に解決したといいます。
浄水槽に取りつけられた「献納のことば」は、「東京浅草 松井講有志一同」となっています。
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この大プロジェクトを全面的に支援したのが、松井講の方々だったわけです。
本当に、感謝に堪えません。
災害など、数多の困難を乗り切ってきた松井坊もまた、こうした篤信の人々に支えられてきたのでしょうね。
また参籠させていただきます!
(参考文献)
・「身延山史」(昭和46年:身延山久遠寺)
・「身延山古寫眞帖」(平成27年:身延山久遠寺 身延文庫)
・「日蓮宗徒群像」(平成5年:宮崎英修著 宝文館出版)
・「身延山史」(昭和46年:身延山久遠寺)
・「身延山古寫眞帖」(平成27年:身延山久遠寺 身延文庫)
・「日蓮宗徒群像」(平成5年:宮崎英修著 宝文館出版)