越後阿闍梨日弁上人
このブログでフル活用させて頂いている「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)でも、六老・日昭上人と九老・朗慶上人との間にお座りになっている姿が描かれています。
僕が日蓮聖人のご霊跡めぐりで最初に日弁上人のお名前を見つけたのは、↑の南足柄・雨坪の弘行寺でした。
身延山を下り、湯治のために常陸へ向かう旅・・・結果的には池上へ向かう最後の旅になってしまいましたが、7日目、足柄峠を越えた後にご一泊された霊場です。
このお寺は、その時日蓮聖人に付き添っていた日弁上人が開山しています。
つい最近も、↑小田原・千代の蓮華寺を訪問した時に、このお寺の開山が日弁上人だと知りました。
日蓮聖人が身延山に入山する途次、そして池上へ向かう途次に、この地を日蓮聖人が通り、他宗のお寺を改宗したと言われています。
日弁上人が開山になり、できたお寺が蓮華寺です。
日弁上人は六老僧に準ずる格の「中老僧」の一人ですが、日蓮聖人が歩いた痕跡を辿った限りでは、日蓮聖人のお近くに付き添う機会が非常に多いお上人だったと思われます。
茨城県の北部・高萩に、日弁上人にゆかりの深いお寺があるそうなので、訪問しました!
松塚山願成寺です。
なんか、いい名前のお寺ですよね!
日蓮聖人の450遠忌に建てられた法塔のようです。
その割には刻字も新しかったので、古くなった石を削り直して再び刻字したのかもしれません。
報恩抄の有名な一節ですね!
僕もお祖師様のように「思いやり」を大切に生きてゆきたいです。
当日はあいにくの雨でしたが、池の蓮は雨が似合います。
この時期、特に生き生きしてきます!
歴史のあるお寺らしく、境内には歴代の法塔がたくさん!
その時代時代の信徒達の思いが詰まった法塔です。
本堂です。
この方形屋根のお寺、大好き!!庵の雰囲気を残しています。
瓦の一枚一枚に・・・寺紋でしょうか。ひまわりみたいな紋ですね!
扁額には・・・ん?無畏施?むいせ?
あとで調べてみると、これは仏教用語で、三つある「施」の一つだそうです。
一つ目は法を施す「法施」、二つ目はお金や物など財を施す「財施」、そして恐れの心を取り除き救ってあげる施が「無畏施」なんだそうです。
この混沌とした時代、日本人が一番必要としている「施」なのではないでしょうか。
本堂裏に出ると、眼下に雄大な太平洋が見渡せます。
このあたりの海岸は、地名にもなっている「赤浜」といいます。
もともと天台僧だった日弁上人は、身延山に乗り込み(すごい!)、日蓮聖人に法論を挑みました。
しかし完膚なきまでに日蓮聖人に論破され、帰依したといいます。
以後は千葉・茂原に鷲山寺を開き、拠点にしていたようです。
法華経の弘通を体現したお坊さんのようで、富士、神奈川、千葉、茨城と教化の旅を続けました。
ここ赤浜では特に腰を据えて布教をされたらしく、数年間、この地に滞在した、というのが願成寺のルーツのようです。
その後、福島を経て陸奥国(今の宮城県)にまで布教の旅は及びました。
しかし、角田市佐倉で説法中に暴漢に刺され、殉教してしまいました。
お弟子さんたちは日弁上人の亡骸を棺に入れて茂原を目指しましたが、ここ赤浜で休憩を取り、いざ出発しようとすると棺が全く動かなくなってしまいました。
これは日弁上人のご意志なのだろうと、この地で荼毘に付され、埋葬されたそうです。
願成寺のご住職(とても優しく対応して下さいました!)によると、日弁上人のお墓がお寺の西の丘の上にあるそうで、行ってみました。
ちょっとわかりにくいですが、高萩清松高校の向かいの細道を入って行きます。
日弁上人のお墓です。
地元の方々が清めてくれているのでしょう、きれいに整備されていました。感謝します。
このお墓は東日本大震災の時に倒壊してしまったらしく、墓石は新しくなっていますが、その後ろに古い墓石がありました。
丘の上から、高萩の地を見守ってくれていると思います!
そうそう、願成寺でご首題を書いて頂いている間、本堂内を見せていただいたのですが、東日本大震災で境内の斜面が崩れてしまい、その再建に際し、多くのお檀家さんが多額の寄付をしていることが明記されていました。
↑の斜面がその一部だと思います。
高萩市内では至る所で甚大な被害が出ていたそうです。
お檀家さん自身も大変な中、それでもお寺を復興させるために一致団結したからこそ、今日、僕が訪問できているのだな、と思いました。
この先もずっと「慈悲広大な」ご住職、お檀家さんに護られてゆくお寺であってほしいです。