日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

寂光山常照寺(北区鷹峯北高峰町)

2024-12-01 09:42:43 | 旅行
(神坂雪佳筆・本阿弥光悦肖像:「本阿弥光悦の大宇宙」図録より引用) 
前回はマルチ芸術家・本阿弥光悦が、元和元(1615)年、洛北鷹峯に開拓した芸術村のお話でした。


(常照寺展示の光悦村古図:常照寺の奥様に撮影許可をいただきました)
55軒のこぢんまりとした村ではありましたが、住民は篤い法華信仰を共有しており、村内には信仰の拠点となるお寺が4ヶ寺もあったそうです。

今回はそのうちの1ヶ寺、檀林まで擁した常照寺を紹介します。



鷹峯の交差点を左(西)に折れると光悦寺ですが、常照寺は右(東)に行きます。



100mほど歩くと、大きな題目塔が現れます。



側面には「常照講寺」



基壇には「檀林」と刻まれていますね。



木々に囲まれた参道は、光悦寺で見た境内の雰囲気とよく似ています。
往時の光悦村、こんな小径を芸術家とか職人さんが歩いていたのかもしれません。



目の覚めるような朱色の山門。



吉野門です。
法華の篤信者であった芸妓・吉野太夫の寄進と書かれてます。



これだけの門ですからね、建設費用も相当なものだったのでしょう。



受付(右)で拝観料を支払い、正面の本堂にお参りします。



寄棟造りの本堂でお題目をあげました。
残暑厳しい日でしたが、お堂を抜ける風が涼しかったです。



本堂の裏手には、歴代お上人の御廟が広がっています。
今日まで法灯を継いでくださったこと、心より感謝致します。



鷹峯に限らず、檀林があったお寺の廟所は、どこも墓石がケタ違いに多いような印象があります。
化主(学長)が期(春と秋)ごとに変わるためだと思います。



中央のお堂は、開山廟です。
中には常照寺を開いた寂照院日乾(けん)上人のお墓がお祀りされているそうです。



廟の扉をよく見ると、デフォルメされた桐紋が刻まれています。
想像上の霊鳥・鳳凰が止まり木とする言い伝えから、古来、桐は貴ばれ、天皇や朝廷が功労者に下賜する紋章として知られています。

しかし日乾上人になぜ、桐紋なのでしょうか?
確証はありませんが、もしかしたら大仏千僧供養会に端を発する、一連の不受不施論争が関係しているかもしれません。


当時、一貫して不受不施義を主張した妙覚寺・仏性院日奥(おう)上人は、宗祖以来の折伏、不受不施が、今も日蓮宗正統のスタイルだという著作「法華宗奏状」を朝廷に奏上しました(確かに全く正義なんです…)が、その内容は時代の変化からから見ると非常に尖ったもので、朝廷側も心配したのでしょう。
(京都御所)
ある日、後陽成天皇から「本当のところ、宗門はどういう見解なのか?」という下問が、日蓮宗側にありました。


(能勢妙見山にある日乾上人銅像)
当時、身延山法主であった日乾上人は「宗門綱格」一巻を著し上奏、日蓮宗の宗義はもっと一般世間に受け入れてもらえるものだというスタンスを、丁寧に説明したのです。


実は日乾上人、千僧供養会に関し、当初は日奥上人と同じく出仕を固く拒んでいたといわれています。師匠・一如院日重上人の度重なる説得で、懊悩の末、ようやく態度を転じたそうで、それだけに、双方の立場がわかる日乾上人の著述は訴えるものがあったのだと思います。

宗門綱格の評価は非常に高く、世に摂受スタイルの宗門を決定づけました。後陽成天皇も安堵したことでしょう。
こういった功績が、日乾上人の桐紋使用につながっているのではないかと、僕は勝手に想像しています。


さて、常照寺開山のお話に戻しましょう。

徳川家康から鷹峯の土地を拝領した翌年、本阿弥光悦・光瑳親子は、光悦村の中に「法華の鎮所(しずめどころ)」を建立します。
(光悦寺境内にある本阿弥光瑳の墓所)
鎮所とは恐らく、信仰の根本である法華経を鎮座させる場所、それを敢えて村内に設けたのだと思います。
光瑳は朝に夕に、この鎮所に詣で、お勤めをしていました。


そんな折、日乾上人が鷹峯にやって来たといいます。

当時、日乾上人57才。既に身延山を下り、摂津国能勢郷を拠点に布教活動をしていたようです。
鷹峯の雰囲気を気に入ったのか、あるいは何かビビっときたのかわかりませんが、日乾上人はこの地に庵を構えたのです。



(能勢妙見山にある日乾上人銅像)
光瑳はこの「日乾」というお坊さんが、実は身延山法主まで務めた高僧であることを知り、鎮所を日乾上人に寄進しました。



日乾上人は鎮所をお寺とし、寂光院常照寺と号しました。
元和2(1616)年のことでした。


一方、日乾上人はかねてから、宗門僧侶の学問所を立ち上げたいと考えていました。
(身延山歴代墓所にある21世日乾上人墓:中央)
日乾上人というと、身延山中興、教団舵取りの手腕に長けたイメージが強いですが、実は学識の高さがハンパなく、わずか19才で身延山において天台三大部を講じ、また26才で本国寺求法院檀林の講主に迎えられ(最年少記録)、天台学を講じています。
それほどの方です。徳を慕う多くの学僧からも、学問所創設を望まれていたのでしょう。


日乾上人は光瑳に、自分の構想を話しました。

光瑳はそれを聞き、大いに喜びました。
この辺境の村に、若いお坊さん達が仏教を学び、深く研究する場所ができる…なんて素晴らしいことだろうと。
光瑳は早速、本阿弥一族挙げて、この事業を支援することを約束しました。


寛永4(1627)年、日乾上人は常照寺内に鷹峯檀林を創設します。

初代講主には、弟弟子である心性院日遠上人(※)の秘蔵っ子、当時30代前半の智見院日暹(せん)上人を招きました。
(開山廟の右脇にある日暹上人供養塔)
このため鷹峯では、日乾上人は「檀林開祖」、日暹上人は「開講初祖」と呼ぶそうです。
(※)身延山22世法主



ところが開講の翌寛永5(1628)年、日暹上人は身延山26世として晋山することになったため、急遽、それまで小西檀林で化主を務めていた立正院日揚(よう)上人が招かれ、第3世化主となりました。
ちなみに立正院日揚上人は、日暹上人の俗弟にあたります。



鷹峯檀林の整備は、小西檀林のノウハウがある日揚上人によってなされました。
講堂や学寮などの造営は勿論ですが、特にこの時代、不受不施義が檀林内に入り込むことを警戒し、規則は相当厳しく、生活の細部に至るまで定められたそうです。


また、日揚上人は檀林の学徒を峯方、山方の2グループに分け、学問を奨励しました。(※)

他檀林でも似たような例がありましたね。
飯高檀林では中台谷・城下谷・松和田谷の3グループ、中村檀林では東谷・西谷の2グループに分かれていました。やはり分割して競わせた方が、結果的に盛り上がるんでしょうね!
(※)日暹上人は峯方の祖、日揚上人は山方の祖といわれる。また日揚上人は鷹峯で初めて「法華玄義」「法華文句」を講義したことから、玄堂の初祖とも称される。


ところで鷹峯檀林の雰囲気について、深草元政上人が興味深い記述を遺しています。
(常照寺前の通り)
ある夏、たまたま鷹峯の常照寺にやって来ると、議論の声の外に、法華読誦の声が聞こえる。およそ檀林の慣習では講習討論を常として、読誦は兼ねないものであるが、この山だけは独り違う。聞くところによると講主自ら読誦を勤め、それを勤めざる者を『我が徒に非ず』と言っている。
この山はいよいよ興る。
(柴又題経寺・望月良晃上人による常照講寺記の現代訳:『法華』誌通巻62巻より引用)



研究者は放っておくと究めすぎて実践と乖離してしまう、といいますが、鷹峯の先生方はその辺を留意し、上手くバランスを取っていたのでしょうね!


常照寺縁起によると、「盛大な頃は 広大な境内に 大小三十余棟の堂宇がならび 幾百人となく 勉学に勤しむ学僧で賑わった」とあります。

明治5(1872)年の学制発布により檀林の歴史を閉じるまで実に245年間、鷹峯檀林は沢山の優れたお坊さんを輩出したのです。


日乾上人開山廟の裏手には、さきほどの山門を寄進した吉野太夫の墓があります。

「太夫(たゆう)」は芸妓のなかでも最高位の称号、公家や大名といったVIPも接待することから、美貌、芸事だけでなく高い教養も求められたといいます。
吉野太夫は更にそのなかのナンバーワン、天下の名妓でした。


(吉野太夫の戒名「唱玄院妙蓮日性信女」が書かれたお塔婆)
茶の湯にも長けていた彼女は、本阿弥光悦を介して日乾上人に深く帰依し、巨財を投じて先ほどの山門を寄進したのだそうです。
このとき吉野太夫23才、すげえ!



夫の灰屋紹益(※)とは法華信仰で結ばれ、38才で亡くなるまで添い遂げたといいます。
お二人の戒名が刻まれた供養塔もあります。
(※)本阿弥光瑳の妻・妙山の弟の養子、つまり光瑳の義甥にあたる



常照寺の広い境内には、仙人が白馬で往来したという池もあります。



近年、池を整備し、また仙人を観音様として法華勧請、馬に乗ったお像を設けたそうです。
お像向背の光明点題目は、日乾上人の揮毫を拝写したといいます。



他にも龍神様の祠や



鬼子母神堂など、常照寺を護ってきてくれた善神がお祀りされています。
いずれもよく清められていました。



特に気になったのは、このお堂です。



扁額には「常富大菩薩」とあります。
ん?…以前どこかで見たことがあるぞ!?


自分のブログを辿ると、2019年に参拝した大阪能勢の無漏山真如寺に、ありました!

(能勢真如寺境内の常富大菩薩堂と扁額)
その時は常富大菩薩、地域信仰の神様ではないかと思い、深く調べずにお堂の写真だけアップしていたのですが、よく考えてみると能勢真如寺も常照寺も、日乾上人が開山したお寺なのです。
これは何かあるぞ!


昭和11年、当時の常照寺住職・山家惠潤上人が書かれた「寂光山常照講寺の沿革並常富大菩薩縁記其他」という資料には、こう書かれています。

多くの学僧に混じって真面目に勉強している『智湧(ちゆう)』という若者の様子に、とかく普通の人と異なる事が多く、不思議な奇瑞が度々起きるので、時の学匠がある夜、ひそかに智湧の部屋を覗いて見ると、白狐が机に向かって一心に勉強していた。
姿を見られた白狐は直ちに鷹峯を去って能勢の山に移られた。
能勢の妙見様のもとで修業を重ね、常富大菩薩となった。
故あって当寺(常照寺)に再三、奇瑞霊感があり、宝殿を建てて祭祀を営むようになった
ということです。


(身延山久遠寺・女坂途中にある圓台坊)
拙ブログにはまだ書いていませんが以前、飯高檀林や身延西谷檀林の調べ物をしていた時、やはり学僧に化けたキツネの話があったのを覚えています(※)。檀林と稲荷神、キツネの関係、いつか調べてみようと思います。
(※)飯高檀林では古能葉稲荷の由緒に、身延西谷檀林では寿量院文殊稲荷の由緒にキツネが登場します。



それにしても常富大菩薩のルーツ、ここ鷹峯にあったんですね!
白キツネが鷹峯を退出し、向かった先が能勢の妙見様(※)ですから、日乾上人と本当にご縁が深い、法華経守護の神様なのでしょう。
(※)古来より能勢郷にあった星信仰を、日乾上人が妙見大菩薩として改めて法華勧請した。


(光悦寺境内から鷹ヶ峰を望む)
ちなみに鷹峯、古くは平安京の北方を鎮護する妙見信仰の聖地だったとか。
そもそも日乾上人が鷹峯を訪れ、庵を構えたのも、そういう理由があったのかもしれません。


また常照寺内には妙見堂を確認できませんでしたが、すぐ近くに清雲山圓成寺という、妙見様をお祀りする宗門寺院があります。

創建は鷹峯檀林が始まってから3年後の寛永7(1630)年、本満寺21世のお上人が開山したといいますから、日乾上人の人脈で間違いないでしょう。

いずれにしろ、5年越し、それも全く異なるご霊跡で「常富大菩薩」の扁額を見つけ、その由来を知ることができました。
これもご霊跡めぐりの醍醐味ですね!



(参考文献)
・「本阿弥光悦の法華信仰(『法華』誌総会講話)」(昭和37年:法華会刊)
・「寂光山常照講寺の沿革並常富大菩薩縁記其他」(昭和11年:常照講寺刊)
・「光悦の藝術村」(昭和31年:佐藤良著 創元社)
・「不受不施派の源流と展開」(昭和44年:宮崎英修著)