建長5(1253)年4月28日、日蓮聖人は清澄山上の旭が森で立教開宗された後、念仏信者である地頭・東条景信の激怒をかい、清澄山を追われてしまいました。
清澄山を下り、鎌倉に向かわれる途中、笠森観音堂に参籠し、法華経布教の祈願をされました。
笠森観音は「大悲山笠森寺」という天台宗寺院ですが、現在でも「日蓮上人参籠ノ間」を保存・公開してくれています。
日蓮聖人がこのお堂に参籠中のある晩、二人の地元有力者の夢の中で、観音様からお告げがあったといいます。
「我に珍客あり、疾く迎えて供養せよ。」
この二人こそ、「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)にも描かれている齋藤兼綱公と隅田時光公でした。
長い宗門の歴史上、最初の信者といわれています。
隅田時光公については、上総当時の肩書きがちょっとわかりませんでしたが、のちに武蔵新倉の領主となっていることから、名の知られた方だったと思われます。
新倉の領主をされていた時に、佐渡配流に向かう日蓮聖人と再会し、現在の戸田妙顕寺(↑画像)や新倉妙典寺の礎を築きました。
一方、齋藤兼綱公は茂原(昔は藻原と表記した)の豪族であり、藻原城の城主でもあった方です。
齋藤兼綱公は隅田時光公とともに観音堂に駆けつけ、日蓮聖人と初めて対面しました。
そして藻原にある自邸に日蓮聖人をお招きしたそうです。
齋藤兼綱公の屋敷跡にあるお寺が、藻原寺です。
黒がベースの総門が迎えてくれます。
宗紋にも使われている井桁を連想させますね。
境内は想像以上に広そうで、山門まで結構な距離があります。
左右には墓所が整備されています。
向こうに見えるのは茂原市役所ですね。
お寺の裏手には公園もあり、市民の憩いの場所になっています。
宝塔を模した特徴的な山門です。
よく見る和風の山門建築とは異なり、斬新ですね~!
昭和8年竣工とありました。
全国の宗門寺院を巡っていると、昭和ひと桁に建立された建造物や銅像が意外と多い事に気付きます。
明治の廃仏毀釈で徹底的にやられた宗門が、壇信徒の意識の高まりで徐々に再興してきた時代なのかもしれません。
山号は藻原山です。
この界隈には湿地が多いため、その昔は「藻原」と表記されていたそうですよ。
阿行と
吽形。
藻原寺の仁王様の表情は、めっちゃ歌舞伎チックです!
正面に祖師堂(大堂)が見えてきました。
梁や柱が朱色に塗られており、山門の雰囲気にマッチしています。
節分の直後に訪問したため、豆まき台が残るレアな風景です。
唐破風がとても立派!
特に彫刻は、あの有名な、波の伊八(二代目)の手によるものだそうです。
宗門寺院では鏡忍寺、誕生寺、それから堀之内の妙法寺でも、伊八の彫刻を見ることができますよ。
こちらは仏殿(本堂)です。
祖師堂と比べて色彩が少なく、素朴な外観です。
そういえば身延山久遠寺も、極彩色の祖師堂に対し、素朴な仏殿だったような・・・。
歴代お上人の御廟を参拝。
これまで法灯を継いで下さった先師たちに感謝です。
近くに開基堂があります。
笠森観音堂に籠られていた日蓮聖人を、藻原の自邸にお招きした齋藤兼綱公をお祀りしています。
日蓮聖人はこの地で、法華経の修行をお説きになったそうです。
これは清澄山での立教開宗後、初めてのことであり、齋藤兼綱公はじめ一族(隅田時光公も兼綱公の一族らしい)は皆、日蓮聖人の教えに帰依したといいます。
そして共にお題目を唱えたことから、この地は「お題目初唱之霊場」と呼ばれています。
縁起によると、兼綱公が建治2(1276)年7月に邸内に建立した法華堂が、藻原寺のルーツのようです。
建治2(1276)年というと、兼綱公がお題目を唱え始めてから23年後。
その間、日蓮聖人は幾多の迫害に遭ってきました。お弟子さんや信者さんもしかり、特に龍ノ口法難後、幕府の弾圧により、多数の弟子信者が退転してしまったとも聞きます。
そんな中、齋藤兼綱公は信仰を貫き通し、日蓮聖人の活動を支援し続けたのです。
兼綱公は同年11月、当地に法華の信仰拠点となる「常楽山妙光寺」を開くことにしました。
身延在山中の日蓮聖人を開山と仰ぎ、
藻原には日蓮聖人の命で日向上人が遣わされました。
なので日向上人が第二祖となっています。
第三祖の日秀上人は後醍醐天皇に拝謁する機会に恵まれた方として知られています。
後醍醐天皇から「常在霊山」の勅許を賜り、山号を「常在山」としました。
後醍醐天皇から続く皇族の中から、藻原寺の歴代貫首様に就任されている方もいるようですね。
江戸時代、徳川家康公より戴いた朱印状に「藻原寺」と書かれていたそうです。
以来、このお寺は「常在山藻原寺」と称するようになりました。
もう一つ、↑の看板には「東身延」と記されています。
(↑画像は身延山久遠寺)
弘安5(1282)年に日蓮聖人がご入滅されたあと、日向上人は身延山第二祖となりました。
つまり、日向上人は身延と藻原両寺の第二祖を兼務されたわけです。
それ以来、両寺は一人の貫首様によって運営されたため、常在山藻原寺は「東身延」と呼ばれるようになりました。
両寺の祖師堂、仏殿の雰囲気が似ていると感じたのも、そのせいかもしれません。
「両山兼務」で思い出すのが、比企ケ谷妙本寺と池上本門寺です。
↑は妙本寺の歴代墓誌ですが、昭和初期まで両山一首制をとっていました。
ただでさえ責任の重い大寺院の貫首様、その兼務はどれほど大変だったことでしょう。
先師達の威徳に感謝せずにいられません。
日蓮聖人のご尊像に合掌。
お祖師様がこの地を訪れたのは立教開宗直後、31才の頃だからでしょうか、若くて溌剌とした印象ですね~!
藻原寺の境内に、ひときわ華やかなお堂があります。
藻原寺を守護する「華経房日徳尊儀」という守護神をお祀りしています。
地元では「華経房さま」として信仰されているそうです。
団扇の紋からもわかりますが、華経房さまは天狗などと同様、変化(へんげ)の人であったようです。
身延山周辺では妙法さまとしてお祀りされている善神が、こちらでは華経房さまとしてお祀りされています。
人、物、事柄など様々に姿を変えて日蓮聖人をお護りし続けた、ありがたい神様です。
感謝の気持ちでお参りしました。
大堂の裏手、こんもりとした丘の上に、石碑があります。
日蓮聖人が身延山から常陸の湯に向かった最後の旅でお乗りになった馬をお祀りした「御乗馬塚」です。
池上にお着きになった日蓮聖人は波木井實長公に宛て、旅の報告と、實長公への感謝の手紙をしたためています。
「波木井殿御報」です。
手紙には、馬の今後を案ずるお祖師様の気持ちも書かれています。(↑画像は波木井山円実寺の境内にある石碑)
「又くりかげの御馬はあまりをもろしくをぼへ候程に いつまでもうしなふまじく候 常陸の湯へひかせ候はんと思候がもし人にもぞとられ候はん 又そのほかいたはしくをぼへば 湯よりかへり候はんほど 上総のもばら殿もとにあづけをきたてまつるべく候に しらぬとねりをつけて候てはをぼつかなくをぼへ候 まかりかへり候はんまで 此のとねりをつけをき候はんとぞんじ候 そのやうを御ぞんぢのために申し候 恐々謹言 日蓮
進上 波木井殿 御侍
所らうのあひだ はんぎやうをくはへず候事恐れ入り候」
余命いくばくもないボロボロのお身体でありながら、馬の事まで気にかけるお祖師様の優しさにグッとくる一文です。
そしてここに出てくる「上総のもばら殿」こそ、齋藤兼綱公のことだったのです。
藻原寺に御乗馬塚があるということは、実際に齋藤兼綱公が「くりかげの御馬」を引き取ったということでしょう。
立教開宗の直後に帰依し、信者として初めてお題目を唱えた「上総のもばら殿」。
良い時代も悪い時代も、一貫して日蓮聖人を支援し続けました。
ご入滅間近の日蓮聖人が、彼なら安心して任せられると思ったのは、必然でしょう。
しんみりしながら藻原寺をあとにしようとすると・・・
ど~~~ん!!
肩から上の巨大な祖師像です。
予定では像高20mの全体像になるようですが、現在台座部分の資金を集めている途中だということです。
ビックリした~!