晩年の日蓮聖人の体調は、決して良好とは言えなかったようです。
弘安元(1278)年11月、日蓮聖人56才の時、池上宗仲公の弟・宗長公に送られたお手紙にはこう書かれています。
「去年の十二月の卅日より はらのけの候しが 春夏やむことなし」
「はらのけ」というのは、どうやら冷えによる下痢のようです。
在山中、悪化と軽快を繰り返しながらも、身延の厳しい寒さも相まってお祖師様の体力を奪っていったと想像できます。
食も細くなり、全身が衰弱してゆくのを見かねて、まわりの方々が温泉療養することを勧めました。
波木井實長公が用意した栗鹿毛の馬に身を委ね、向かったのは「常陸の湯」でした。
茨城県水戸市の西部に、加倉井(かくらい)町という場所があります。
どうやらこの近くに、日蓮聖人が行こうとしていた常陸の湯があるようです。
まずは加倉井町にある日蓮宗寺院・妙徳寺を訪問しました。
妙徳寺は常陸の湯を由緒とするお寺です。
とても親切な奥様に常陸の湯への行き方を教えて戴きました。
妙徳寺については後日、レポしますね!
現地は水戸ゴルフクラブというゴルフ場に隣接しています。
↑画像に池が見えますが、この界隈には古くから池が多く、景勝地としてよく知られた場所だったそうです。
ゴルフ場のクラブハウスを過ぎ、細い横道に折れると、石碑などがある広い一画に行き着きました。
すぐそこにグリーンが見えます。
ナイスショットでも出たのでしょうか、時折歓声と拍手が聞こえてきます。
OBになっちゃったボールもちらほら(笑)
「常陸の湯」の石柱がありました。
以前は本当に入浴施設があった(↑奥の建物かな?)そうですが、現在は閉鎖されているといいます。
この鳥居の右側に・・・
源泉がありました!
温泉成分によって水路が赤みがかっていますが、箱根のような硫黄臭さはありません。
昭和18(1943)年に建立された石碑に、由緒が刻まれていました。
妙徳寺で戴いた由緒も交えて、探ってみたいと思います。
常陸の湯の歴史は古く、平安後期に遡ります。
永承5(1050)年、奥州討伐に向かっていた源氏の軍勢が、この地で飲み水を探していたそうです。
そして篠(しの:丈の低い笹)の藪の中に、こんこんと湧き出す泉を発見しました。
飲むだけでなく浴水(多分身体にかける)に用いたところ「霊効」があったといいます。
以来この場所は、篠叢中の隠泉ということで「隠井(かくれい)」と呼ばれるようになりました。現在の地名・加倉井は隠井がルーツのようですね。
この軍勢を率いていた武将は、源義家公でした。
史実からすると、義家公が隠井を発見した翌年に、前九年の役(陸奥国の豪族・安倍氏との合戦)が始まっています。
奥州の手前にある常陸に、軍勢の疲れを癒やす場所があったというのは、戦略上メリットが大きかったのではないでしょうか。
源泉の隣にはよく清められた祠があります。
「八幡大菩薩」と書かれていました。
源義家公自らが戦勝祈願のために感得した八幡様で、「隠井八幡宮」と呼ばれているそうです。
ここからちょっと話は脱線しますね。
義家公は、東国で源氏の地位を確固たるものにしたことで知られる源頼義公の長男です。
次男は義綱公、三男は義光公であり、それぞれ元服した神社名から、八幡太郎、加茂次郎、新羅三郎という通称が付いています。
隠井を見つけた八幡太郎義家公の子孫は、源頼朝公をはじめとする武家としての源氏の本流になってゆくのです。
ところで三男の新羅三郎義光公、どこかで目にした名前だな~と思いましたが、それもそのはず、甲斐源氏の祖に当たる方で、武田氏や加賀美氏、そして日蓮聖人の大壇越である南部實長公のルーツにもなっているのです。
ちなみに僕は昨年、比叡山を訪問した際に、義光公が元服をした新羅善神堂(園城寺/三井寺)にも立ち寄り、参拝しました。
日蓮聖人は比叡山に修学されている間、園城寺にも歴訪され、見聞を広めたことが知られていますが、そうなると当然、園城寺の守護神である新羅善神堂にも参拝されていたと思われます。
日蓮聖人と南部實長公がまだお互いに面識がなかった頃に、実は源義家公をめぐったご縁があったんですね~!
深いなぁ・・・。
話を元に戻しましょう。
それから200年以上過ぎた文永元(1264)年、いわゆる小松原法難が起きました。
二人の弟子信者さんが殺害されましたが、鬼子母神が出現し、日蓮聖人は一命を取り留めました。
(↑画像は小松原鏡忍寺)
重傷を負った日蓮聖人は、夜道を逃れて小湊の山中にある岩窟で一夜を過ごしたことが知られています。(↑画像は日蓮寺の養疵窟)
また清澄山を追放された直後に一旦身を寄せた西条華房蓮華寺の近くには、日蓮聖人が額の傷を洗ったと伝わる井戸が残っています。
実はこのあとの日蓮聖人の足取りが、なかなか追えずにいました。
中山法華経寺の縁起によると、小松原法難後、日蓮聖人はしばらく中山の地で身体を休めたといいます。
その際、自らを救ってくれた鬼子母神に霊験を感じ、鬼子母神のお像を刻んで開眼したそうです。これが「中山鬼子母神」のルーツとなっています。
(↑画像は中山法華経寺の法華堂)
小松原法難後のお祖師様の動向、僕の知りうる限りではこのくらいしかありませんでした。
しかしこの時代は、元国からの使者がたびたび来訪し、鎌倉幕府に圧力をかけており、政情が揺らぎ始めていたはずです。
日蓮聖人は房総各地をお説法しながら、不安に思う庶民達の教化に巡っていたと考えるのが自然でしょう。
ここで先ほどの常陸の湯の石碑に戻ります。
日蓮聖人は小松原法難の翌年、実はここ隠井を訪れていた事が石碑に刻まれていました。
更に、「是ニ浴シ」って、お祖師様が常陸の湯に浸かったってことですよね!
わぁ~、カルチャーショック!
日蓮聖人の布教は、房総だけでなく常陸にも及んでいたことになります。
やっぱり現地に来てみるもんですね~!
もともとこの場所は日蓮聖人の大壇越である太田乗明公の飛び地で、波木井實長公の三男・實氏公が領主をしていたようです。
まわりは敵ばかりの当時、安心してお湯に浸かることができる数少ない場所だったのかもしれませんね。
隠井の泉質は鉄分が多く(そのため赤っぽい)、炭酸が豊富であることがわかっています。一般的に含鉄泉や炭酸泉は、かけ湯をしたり飲泉することにより、胃腸病に効果があるといわれているようです。
日蓮聖人も周りの方々も、胃腸病への効果などがわかった上で、隠井での湯治を決めたと思われます。
弘安5(1282)年9月8日、日蓮聖人は身延の山を下りました。
気立てのいい栗鹿毛の馬に病身を預け、波木井公の息子達に護衛されながら、ゆっくりと常陸の湯を目指しました。
刀で切りつけられるほどの法難に遭いながらも、夢中で法華経を広めていた17年前、常陸での布教の疲れを癒やしてくれた隠井の地のことを、お祖師様は馬に揺られながら思い浮かべたことでしょう。
隠井のお湯をペットボトルに汲んで帰ってきました。
早速、我が家のお仏壇にお供えしました。
お祖師様、喜んでくれたかなぁ?