山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

風の中からかあかあ鴉

2004-10-26 12:34:37 | 文化・芸術
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K師との40年-<2>

 K師は私の高校での国語の教師だった。
一年時では授業もなくなんの接点もなかったのだが
貴公子然とした端正な風貌でただでさえ目立つ存在なのに
戦時の旧制中学時代、志願兵として江田島の海軍兵学校に在籍したという経歴からか
背筋をシャンと伸ばし早足で堂々と闊歩する姿といい
当時としては珍しく蝶ネクタイをチョイと小粋に曲げ
スーツ姿で毎日登校してくるものだから、いやがうえにも生徒たちの注目を集める。
私とすれば、尊大なばかりか自意識過剰ともみえるダンディズムに加え
生粋の大阪人だというのに語り口調は標準語アクセントで
おまけに少し気取ったようなイントネーションもあるという
なんとも自信過剰のキザな奴という印象が強く
大阪弁丸出しの私などには、鼻持ちならぬとても好きになれないタイプだった。
ところが、なぜか生徒のあいだではすこぶる評判良く
校内一、二位を争う人気ぶりなのだから
此方には気にいらない奴なのになぜか気にかかる奴という
妙にアンビヴァレントな気分にさせられる不可解な存在だった。

 ところが、二年時となり、初めて彼の授業を受けるようになって
K師への印象は一気に豹変するのである。


分け入っても分け入っても青い山

2004-10-26 12:31:33 | 文化・芸術
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山頭火のモノローグ

 水は流れる、雲は動いて止まない。風が吹けば木の葉が散る。
魚ゆいて魚のごとく、鳥飛んで鳥に似たり。
大正十五年四月、解くすべもない惑いを背負うて、
わしは行乞流転の旅へ出た。
その二年前の年の暮れ、酒に酔っぱらったわしは、
熊本の公会堂の前を走る電車に仁王立ちとなって遮ってしまった。
急ブレーキで危うく大事に至らなかったが、車内の乗客はみなひっくり返ったらしい。―― 
近くの交番から巡査が飛び出してくる、押しかけた人だかりに囲まれる。―― 
大騒ぎになるところを熊本日々新聞の木庭という顔見知りの記者が、
わしを無理矢理引っ張って、報恩寺という寺へ連れて行ってくれた。
俗に千体仏と呼ばれる曹洞宗の禅寺だった。―― 
住職の義庵和尚はなにも云わず、この業深き酒乱の徒を受け入れてくれた。
過去はいっさい問わず、ただ黙って「無門関」一冊をわしの前に差しだしてくれた。―― 
長い間無明の闇にさすらいつづけていたわしは一条の光を求め、
座禅を組み修行に打ち込むようになった。
 出家得度は年も改まって二月だったか、―― 法名は耕畝、
遊蕩と自棄の病にこの身をゆだね、破産と破綻を繰り返した半生、山頭火四十四年の新生の一歩だった。
それから一月後には義庵和尚の計らいで味取観音堂の瑞泉寺へ堂守となって落ち着いていた。
 山林独住、静かといえば静かな、寂しいと思えば寂しい生活、
気ままな托鉢の日々は、わしに安穏な気を満たし、忘れかけていた句作を復活させてもくれた。

さて、どちらへ行かう風がふく

2004-10-26 12:30:35 | 文化・芸術
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K師との40年 -<1>

 1963年(S38)の夏休みに入る直前ではなかったか。
私は、同志社大の1回生、第三劇場という劇団に入っていた。
その日は、OBとして高校の演劇部の稽古を観るため、久し振りに母校を訪れた。
今は校舎も建て替えられてずいぶんと変っているが、
昔の正門から入って校舎へと5.60メートルほどつづくアプローチを、
運動場で部活や遊びに興じている生徒たちを横目に見ながら歩いていくと、
校舎から出てくるK師にバッタリと出くわした。
こういう偶然を捉えて離さないのが彼の真骨頂で、
「おっ、いいところで会った、ちょっと話がある。
俺は今からバスで上六まで行くから、一緒にバスに乗って付き合え。」
と、まるで拉致するかのように、半ば強引に付き合わされてしまった。

K師の話は簡単明瞭。
自分を慕って集まるOBたちで、Actual₋Art(状況芸術の会)という集団を立ち上げること。
その集団では表現手段として創作劇を軸に演劇活動をしようということ。
ところが、ここに集まる学生を中心としたOBたちは、
政治的にしろ文化的にしろ、運動理念においてはそれぞれ一家言を有するが、
演劇の実践たるや未経験者が圧倒的で、今のところまったくの素人集団といっていいこと。
それが、近々に集中合宿を行い、秋の旗揚公演に向けての第一歩を踏み出すということ。
で、お前のような芝居バカも一人くらい欲しいのさ、
とは、さすがに教育者たるもの、そこまで露骨なことは云わなかったが、
要するに「よかったら、この合宿に参加してみないか」とのお誘いだった。

安か安か寒か寒か雪、雪

2004-10-26 12:29:07 | 文化・芸術
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山頭火の妻サキノのモノローグ


 わたしには、あの人のことは、よくわかりません。
大種田の惣領息子だったあの人に嫁いだのは、二十一の時でした。
あの人は二十八。もうその頃には、あの大きな家屋敷もみんな売り払われて、大道(だいどう)で酒造りをしておりました。
あの人は口癖のように、わしは禅坊主になるのじゃから嫁は貰わぬ、と云うていたとです。
それをまあ、ろくに見合いらしい見合いもせず、両方の親で決めて、式を挙げてしまいましたよ。
あの人が夫らしく家に修まっていたのはわずか一週間でした。
それからは、いつも酒びたりで、世間様に
大迷惑ばかりかけて――。
月並みに生きる、ということがとてもできない人でした。
あの人の苦しい種も、嬉しい種も、それがわたしにはとうとう解りませんでした――。
あの人がわたしに残して呉れたものといえば、たった一人の息子と、
あの人が四十四にもなって出家する云うて、その時わたしに聖書を呉れよりました。
その二つきりくらいのものです――。
その聖書は、あの人にしてみれば、生きながらの形見のつもりだったかもしれません。

たんぽぽ散るやしきりに思ふ母の死のこと

2004-10-26 12:28:07 | 文化・芸術
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山頭火のモノローグ

 母さん、母さん、‥‥ああ、夢か、また母の夢をみた。
歯をくいしばった白い母の顔だった。‥‥
あの日、井戸から抱え上げられたのは母だった。
髪を振り乱していたが、怖い形相ではなかった。
‥‥眼を閉じていた、噛みしめた歯が少しのぞいていたっけ、――
 (母の位牌を懐から取り出して)
母さん、私ももうすぐそちらへ参りまする。――


 無駄に無駄を重ねたような一生だった。
それに酒をたえず注いで、そこから句が生まれたような一生だった。
ぼうぼうばくばく、六十年に至らんか、―― 
山頭火はなまけもの也、
わがままもの也、きまぐれもの也、
虫に似たり、草のごとし。‥‥


 あの日、わしは近所の子供らといつものように、裏の納屋で芝居ごっこをして遊んでいた。
―― 急に母屋の方が騒がしくなった、
走っていってみると、土間へ引上げられた母が筵をかけられていた。
冷たい身体だった、どんなに叫んでみても返事はなかった。――
親父はその日も家に居なかった。おコウという妾と一緒に別府に遊んでいたらしい。
―― 親父は決して悪い人間じゃなかった。
むしろ良すぎて、女に弱かった。酒はあまり呑まなかった。
ところが妾が三、四人いたらしい。――


 母は三十三だった。―― 
なぜ死んだか、‥‥ 親父の道楽ゆえか、守るべき大種田の家の重さに押しつぶされたか、‥‥ 
なにもわからぬまま、この春、四十九回忌を迎えた。――